黎明秘話(Tales from the Twilight)
- 2021年8月27日の新生祭に合わせて第一弾が公開されたもの。
「ファイナルファンタジーXIV: 暁月のフィナーレ」に向け、まだ語られていないキャラクターたちの想いなどを綴った特別な読み物、「黎明秘話」を公開しました!
今回は、「第1話: 傷を知る者」をお届けします。
黎明秘話特設ページは『こちら』。
※「黎明秘話」はメインシナリオのネタバレを含むため、メインシナリオをコンプリートしていない方はご注意ください。
※全5回(第1~5話)の更新を予定しています。
※「黎明秘話」はメインシナリオのネタバレを含むため、メインシナリオをコンプリートしていない方はご注意ください。
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概要
「ファイナルファンタジーXIV: 暁月のフィナーレ」に向け、まだ語られていないキャラクターたちの 想いなどを綴った特別な読み物、「黎明秘話」を公開しました!
黎明秘話 第1話「傷を知る者」
ある晴れた日のドマ町人地。
栗斎塾からの帰り道だろうか。数人の子どもたちが空き地で大声を張り上げていた。
何気ない日常の風景。しかし、そこから剣呑な言葉が飛び出したものだから、ユウギリはふと足を止め、聞き耳を立てた。
「あれは、帝国の将軍に斬られた傷だぞ!」
「いーや違う、人食い虎を退治したときに爪で引っかかれたんだ!」
どうやら、ヒエンの額にある十字傷について言い争っているらしい。
だが、どれもこれも根も葉もない噂ばかりで真実からは程遠い。
「セイテンタイセイと勝負したときのもんさ!」
大龍山脈の奥深くに棲まうとされる瑞獣との勝負とは、思わぬ珍説が飛び出したものだ。まあ、完全に無関係とも言い切れないのだが、残念ながらやはり違う。
あの傷は――ユウギリは、遠い日の出来事に思いを巡らせた。
ユウギリが、まだスイの里で暮らす童わらべのひとりだった頃のこと。
掟によって外界との接触を禁じられていたが、彼女をはじめ好奇心旺盛なスイの子どもたちは、たびたび大人の目を掻い潜っては、地上まで遊びに赴いていた。
あるとき、皆でドマの城下を見に行こうという話になった。彼女たちは意気揚々と出かけたが、そこで目にしたのは書で親しんだ活気ある城下町ではなかった。戦によって半ば崩れかけた町並みで、肩で風を切って歩くのは黒尽くめの帝国兵ばかり。
その圧政者たちによって、民が暴行される陰惨な光景を目にし、怯えた子どもらは逃げ帰ることになる。このとき、ユウギリは道中で友からはぐれてしまった。
そして、ヤンサの鬱蒼とした竹藪に迷い込み、運命の出会いを果たしたのだ。
その少年は、小さな身体に似合わぬ大ぶりの木刀を持ち、一心不乱に素振りをしていた。
滝のように汗を流しながら鍛練を続ける少年の姿を見ていると、見知らぬ土地で迷子になった不安は不思議と消え失せ、好奇心が湧いてきた。
彼女は思わず口にしていた。
「なにをしているの?」
不意に声をかけられても少年は微塵も驚かず、振り向くことなく答えた。
「剣の修行だ。力がなくては、戦うことも護ることもできんからな!」
「子どもなのに、何と戦うの? 何を護るの?」
その問いに、少年はやっと木刀を降ろして首を回らせた。
「そなたは、このあたりの者ではないようだな。
わしはリジンのシュン、ドマの侍だ。
侍は民を護るために戦う者……そのために、こうして力をつけているのだ」
シュンと名乗ったこの少年こそ、後にユウギリが仕えることになる、ヒエンその人だ。
彼はユウギリがスイの民だと知ると、親切にも紅玉海の海辺まで送ってくれた。
かくして彼女は、無事に里に戻ることができたわけだが、この日の出来事は、いつまでも頭の片隅に残り続けた。
あの帝国兵がやってきたら、戦う術を持たないスイの民は、あっという間に蹂躙されてしまうことだろう。
自分も力をつけて故郷を護らねば――
そんな思いにかられたユウギリは、シュンの修行場に通い、
彼に倣って木の棒を振り回すようになった。
毎日のように、ふたりは「修行」を続けた。
日が経つにつれて、互いを名で呼び合うようになり、やがて休憩にかこつけて談笑し、子どもらしく遊ぶことも増えていった。
ユウギリが里で流行っていた「石蹴り」を教えると、シュンは我を忘れたように楽しんだ。スイの里では、毎日のようにこうして遊んでいると告げると、彼は目を丸くして驚いた。
その反応を見て、帝国配下のドマでは子どもが伸び伸びと遊ぶこともできないのだと理解し、申し訳ない気持ちになったのを覚えている。
シュンにとって、この竹藪だけが監視役の目が届かない自由な場所のようだった。
あるとき竹藪に赴くと、珍しくシュンが木刀を持つことなく、思いつめた様子で座り込んでいた。
ユウギリがどうしたのかと問うと、彼は民が酷く苦しんでいるともらした。
数日前から、帝国侵攻時に半壊していたドマ城を、属州総督府として利用するための復旧工事が始まっており、多くの民が強制労働を強いられているのだという。
昼夜問わず、ろくに休みもなく続く重労働で、体調を崩して倒れる者が後を絶たなかったが、帝国軍は無情にも次々と人を使い捨てにしていった。
見かねたシュンは自身の父であり、ドマ国の前君主にして、現在は属州副総督の地位にあるカイエンに強制労働の中止を求めた。
しかし、帝国支配下の傀儡として、何の権限も持たない父にはどうすることもできず、工事が終わるまで耐えるしかないと告げられたのだった。
シュンは帝国軍と戦い、民を解放すべきだとまで言ったが、カイエンは静かにこう諭した。
「目先の事象だけでなく、大局を見よ」
彼は父の辛い立場がわかっていたからこそ、それ以上は食い下がらなかったが、ユウギリの前で涙を浮かべながら声を荒げた。
「だが、わしはこれ以上、民が苦しむのを見ておれん!
ドマの侍として、いますぐ皆を助けてやりたいのだ!」
シュンの目から大粒の涙がこぼれた。
彼はそれを隠すように慌てて背を向けながら話を続ける。
そうは言っても、非力な子どもに過ぎない自分には尚更どうすることもできない。己の無力さが口惜しいと。
ユウギリは、何と声をかけるべきかわからなかった。
そうして沈黙のときが、しばし過ぎてゆくと、空を流れる雲を見上げていたシュンが、ふと拳を握りしめた。だが、修行をするでもなく、悪いが今日は屋敷に帰ると告げて立ち去ってしまった。
ユウギリはどこかおかしいと感じた。
シュンがあんな泣き言を吐いて諦めるような少年じゃないと知っていたからだ。
これは何かあるという直感から、彼の後をこっそりつけることにした。
案の定、シュンは屋敷のある町人地には戻らず、なぜか廃墟と化した無二江流域を歩き続けた。
そうしてたどり着いたのはガンエン廟。ドマ国の開祖にして、シュンの祖先でもある人物を祀った霊廟である。
宗教行事を嫌う帝国によって、その表口は閉ざされ兵士たちに守られていたが、シュンは彼らの目を盗むようにして物陰にあった隠し扉を開き、霊廟の中へと入っていった。一族に伝わる裏口というわけだ。
ユウギリは疑問に思いながらも、少し距離をとってシュンの背を追い続けた。
こうして薄暗くかび臭い霊廟の通路を進んでいくと、奥の方から鈍い金属音が聴こえてきた。
ガシャン……ガシャン……
シュンは素早く柱の陰に、慌ててユウギリも近くにあった銅鑼どらの陰に身を隠した。
ほどなく、暗闇の中から鋼鉄の巨体が姿を現した。
宝珠を心核として利用した武装カラクリ人形、キヨフサだ。
不埒な侵入者から霊廟の宝を護るための存在が、今なお役目を果たしているらしい。
シュンは息を殺しながら、ユウギリは震えを抑えながら、巨体が歩き去るのを待った。
やがて、キヨフサが闇に消えるとシュンは柱の陰から出て、勢いよく駆けだした。ユウギリもまた彼を見失うまいと焦って飛び出て――派手に銅鑼を倒してしまった。
通路に、轟音が鳴り響く。
そうとなれば見回りのキヨフサが舞い戻るのは必至だ。侵入者を発見して大剣を振り上げるキヨフサを見て、ユウギリは腰を抜かしてしまった。
殺される……!
死を覚悟したユウギリは、目を瞑った。
だが、耳をつんざくような金属音が聴こえるばかりで、怖れていた痛みは感じない。恐る恐る目を開けると、そこには振り下ろされた大剣を刀で受け止める少年の背があった。
つばぜり合いに耐えながら、シュンが叫ぶ。
「ユウギリ、離れろ!」
ユウギリは這うようにして、なんとか巨体から身を離した。
力勝負ではキヨフサに及ばず、どうにか横に大剣を逸してみたものの、続けざまに薙ぎ払われれば、防御の構えをとるのがやっと。後方に吹き飛ばされたシュンの苦痛に歪んだ顔に、鮮血が流れた。額に傷を負っていたのだ。
絶体絶命の窮地である。
だが、彼は見逃していなかった。
先ほど、キヨフサが大剣を薙ぎ払った直後、その重さでよろめいていたことを。
大剣を寸前でかわせば、相手の一瞬の隙をつくことができる――!
迷っている暇はない、彼は大博打に出た。
大胆にキヨフサの間合いに飛び込み、薙ぎ払いを誘う。
「今だッ!」
来るとわかっていれば回避はできる。
シュンはキヨフサの薙ぎ払いを、既のところで避けてみせた。ふたたび刃先が額をかすったが、大剣が空を裂いた直後、彼は完全に相手の懐に入っていた。
そして、敵の身体が泳いだ隙にシュンは落ち着いて刀を構え、修行のとおりに打ち込む。
心核を砕かれたキヨフサは均衡を崩し、轟音を立ててひっくり返った。
顔を上げたシュンの額には、真っ赤な十字が刻まれていた。
「ユウギリ、逃げるぞ!」
勝利の余韻に浸ることもなく、シュンはユウギリの手を引き、一目散に駆けだした。
見回りのキヨフサは、一体ではないのだ。
シュンたちは霊廟の表口に辿り着くと、躊躇なく外へと飛び出した。
「助かった……」
そう胸をなでおろしたのも束の間、目の前に黒い影が立ちはだかった。
ガンエン廟を警備していた帝国兵だった。
「お前たち、どうやって!? 霊廟への立ち入りは禁じられているのだぞ!
違反者は処刑するとの総督令を知らぬわけではあるまい!」
怯えきって固まるユウギリを庇うように、シュンが前に出て叫んだ。
「すべてわしの責任だ!
処刑するならわしだけにして、どうか彼女は許してやってくれ!」
そう懇願して、シュンは土下座までしてみせた。
「ガキにしてはいい度胸じゃないか……」
剣を抜いて身構える帝国兵を見ながら、ユウギリは泣き叫ぶことすらできなかった。
自分の失態で、大切な友だちが処刑されてしまう。
何とかしなければという想いだけが空回りし、涙が溢れ出してきた。
「お待ちくだされ、その童が副総督の長子と知っての処刑でござろうか?」
そこに、当時リジン家の世話人となっていた、巨漢の侍ゴウセツが現れた。
シュンの正体を知って驚く帝国兵だが、それでも罪に問うことはできると反論する。
「だとすれば、警備の任にありながら童の侵入を防げなかった、
おぬしらの罪も問われることであろうな」
このゴウセツの一言が決定打となった。
帝国兵は、見逃すのは今回限りだと吐き捨てると、ふたりの身柄を解放したのだった。
「ドマの民を救うため、セイテンタイセイの力を借りたかったのだ」
ガンエン廟に侵入した理由をゴウセツに問われ、シュンはそう答えた。
すると巨漢の侍は、腕を組み切々と説き始めた。
「なるほど、セイテンタイセイは音に聞こえし大瑞獣。
その力があれば、城の工事に動員されている者らは救えるやもしれませぬ。
が、その後はいかようになさるおつもりか?」
シュンが答えられぬと見て、ゴウセツは続けた。
「強制労働から逃れた者には、さらに厳しい締め付けが待っているのは必定。
シュン坊が救おうとなされておる者らに、その覚悟がありましょうや?
事を起こすとなれば、必ず先を見据えねばなりませぬ。
カイエン様が語った『大局を見る』とはそういうことなのでござる」
ただ黙して俯いているシュンを見て、ユウギリは辛抱できずに声を上げた。
「シュンは私を命がけで護ってくれた! だから、もう許してあげて!」
一部始終を語って聞かせる少女に、ゴウセツは耳を傾けてくれた。
「ふむ……わが身を顧みず、友を救おうとしたことは立派でござる。
その心意気に免じて、此度のことはこれで終いとしましょう」
それから程なくして、ドマ城の工事は終わり、民は強制労働から解放された。
だが、竹藪でのふたりきりの修行は再開されることはなかった。
シュンが、ゴウセツから本格的に稽古をつけてもらうことになったからだ。
「父上の言うとおりだった。帝国と戦を始めるにはまだ早い。
ドマの民も……そして、わしもな」
少年は自嘲気味に微笑み、そして表情を改めて宣言した。
「だが、わしはいつかドマをスイの里のような、子どもが笑って暮らせる国にしたい。
必ずそれを成し遂げて見せるぞ!」
「私も、私もそれの力になりたい!」
思わず、ユウギリはそう答えた。
「おう! 待っておるぞ!」
かくして、幼き少年と少女は別れた。
彼らが再会を果たすのは、何年も後のこと。その時、ユウギリは「隠れ里」で技を修めた忍者に、ヒエンは元服した一人前の侍となっていた。
いつの間にか、子どもたちは言い争いに飽きたのか、石蹴りをして遊んでいた。
そこには、子どもたちが笑って暮らせる国があった。
「石蹴りか? わしも混ぜてくれ!」
十字傷を持つ侍が現れて、子どもたちの輪に交ざる姿を見て、ユウギリは微笑んだ。あの日の少年は、確かに誓いを果たしたのだ。
栗斎塾からの帰り道だろうか。数人の子どもたちが空き地で大声を張り上げていた。
何気ない日常の風景。しかし、そこから剣呑な言葉が飛び出したものだから、ユウギリはふと足を止め、聞き耳を立てた。
「あれは、帝国の将軍に斬られた傷だぞ!」
「いーや違う、人食い虎を退治したときに爪で引っかかれたんだ!」
どうやら、ヒエンの額にある十字傷について言い争っているらしい。
だが、どれもこれも根も葉もない噂ばかりで真実からは程遠い。
「セイテンタイセイと勝負したときのもんさ!」
大龍山脈の奥深くに棲まうとされる瑞獣との勝負とは、思わぬ珍説が飛び出したものだ。まあ、完全に無関係とも言い切れないのだが、残念ながらやはり違う。
あの傷は――ユウギリは、遠い日の出来事に思いを巡らせた。
ユウギリが、まだスイの里で暮らす童わらべのひとりだった頃のこと。
掟によって外界との接触を禁じられていたが、彼女をはじめ好奇心旺盛なスイの子どもたちは、たびたび大人の目を掻い潜っては、地上まで遊びに赴いていた。
あるとき、皆でドマの城下を見に行こうという話になった。彼女たちは意気揚々と出かけたが、そこで目にしたのは書で親しんだ活気ある城下町ではなかった。戦によって半ば崩れかけた町並みで、肩で風を切って歩くのは黒尽くめの帝国兵ばかり。
その圧政者たちによって、民が暴行される陰惨な光景を目にし、怯えた子どもらは逃げ帰ることになる。このとき、ユウギリは道中で友からはぐれてしまった。
そして、ヤンサの鬱蒼とした竹藪に迷い込み、運命の出会いを果たしたのだ。
その少年は、小さな身体に似合わぬ大ぶりの木刀を持ち、一心不乱に素振りをしていた。
滝のように汗を流しながら鍛練を続ける少年の姿を見ていると、見知らぬ土地で迷子になった不安は不思議と消え失せ、好奇心が湧いてきた。
彼女は思わず口にしていた。
「なにをしているの?」
不意に声をかけられても少年は微塵も驚かず、振り向くことなく答えた。
「剣の修行だ。力がなくては、戦うことも護ることもできんからな!」
「子どもなのに、何と戦うの? 何を護るの?」
その問いに、少年はやっと木刀を降ろして首を回らせた。
「そなたは、このあたりの者ではないようだな。
わしはリジンのシュン、ドマの侍だ。
侍は民を護るために戦う者……そのために、こうして力をつけているのだ」
シュンと名乗ったこの少年こそ、後にユウギリが仕えることになる、ヒエンその人だ。
彼はユウギリがスイの民だと知ると、親切にも紅玉海の海辺まで送ってくれた。
かくして彼女は、無事に里に戻ることができたわけだが、この日の出来事は、いつまでも頭の片隅に残り続けた。
あの帝国兵がやってきたら、戦う術を持たないスイの民は、あっという間に蹂躙されてしまうことだろう。
自分も力をつけて故郷を護らねば――
そんな思いにかられたユウギリは、シュンの修行場に通い、
彼に倣って木の棒を振り回すようになった。
毎日のように、ふたりは「修行」を続けた。
日が経つにつれて、互いを名で呼び合うようになり、やがて休憩にかこつけて談笑し、子どもらしく遊ぶことも増えていった。
ユウギリが里で流行っていた「石蹴り」を教えると、シュンは我を忘れたように楽しんだ。スイの里では、毎日のようにこうして遊んでいると告げると、彼は目を丸くして驚いた。
その反応を見て、帝国配下のドマでは子どもが伸び伸びと遊ぶこともできないのだと理解し、申し訳ない気持ちになったのを覚えている。
シュンにとって、この竹藪だけが監視役の目が届かない自由な場所のようだった。
あるとき竹藪に赴くと、珍しくシュンが木刀を持つことなく、思いつめた様子で座り込んでいた。
ユウギリがどうしたのかと問うと、彼は民が酷く苦しんでいるともらした。
数日前から、帝国侵攻時に半壊していたドマ城を、属州総督府として利用するための復旧工事が始まっており、多くの民が強制労働を強いられているのだという。
昼夜問わず、ろくに休みもなく続く重労働で、体調を崩して倒れる者が後を絶たなかったが、帝国軍は無情にも次々と人を使い捨てにしていった。
見かねたシュンは自身の父であり、ドマ国の前君主にして、現在は属州副総督の地位にあるカイエンに強制労働の中止を求めた。
しかし、帝国支配下の傀儡として、何の権限も持たない父にはどうすることもできず、工事が終わるまで耐えるしかないと告げられたのだった。
シュンは帝国軍と戦い、民を解放すべきだとまで言ったが、カイエンは静かにこう諭した。
「目先の事象だけでなく、大局を見よ」
彼は父の辛い立場がわかっていたからこそ、それ以上は食い下がらなかったが、ユウギリの前で涙を浮かべながら声を荒げた。
「だが、わしはこれ以上、民が苦しむのを見ておれん!
ドマの侍として、いますぐ皆を助けてやりたいのだ!」
シュンの目から大粒の涙がこぼれた。
彼はそれを隠すように慌てて背を向けながら話を続ける。
そうは言っても、非力な子どもに過ぎない自分には尚更どうすることもできない。己の無力さが口惜しいと。
ユウギリは、何と声をかけるべきかわからなかった。
そうして沈黙のときが、しばし過ぎてゆくと、空を流れる雲を見上げていたシュンが、ふと拳を握りしめた。だが、修行をするでもなく、悪いが今日は屋敷に帰ると告げて立ち去ってしまった。
ユウギリはどこかおかしいと感じた。
シュンがあんな泣き言を吐いて諦めるような少年じゃないと知っていたからだ。
これは何かあるという直感から、彼の後をこっそりつけることにした。
案の定、シュンは屋敷のある町人地には戻らず、なぜか廃墟と化した無二江流域を歩き続けた。
そうしてたどり着いたのはガンエン廟。ドマ国の開祖にして、シュンの祖先でもある人物を祀った霊廟である。
宗教行事を嫌う帝国によって、その表口は閉ざされ兵士たちに守られていたが、シュンは彼らの目を盗むようにして物陰にあった隠し扉を開き、霊廟の中へと入っていった。一族に伝わる裏口というわけだ。
ユウギリは疑問に思いながらも、少し距離をとってシュンの背を追い続けた。
こうして薄暗くかび臭い霊廟の通路を進んでいくと、奥の方から鈍い金属音が聴こえてきた。
ガシャン……ガシャン……
シュンは素早く柱の陰に、慌ててユウギリも近くにあった銅鑼どらの陰に身を隠した。
ほどなく、暗闇の中から鋼鉄の巨体が姿を現した。
宝珠を心核として利用した武装カラクリ人形、キヨフサだ。
不埒な侵入者から霊廟の宝を護るための存在が、今なお役目を果たしているらしい。
シュンは息を殺しながら、ユウギリは震えを抑えながら、巨体が歩き去るのを待った。
やがて、キヨフサが闇に消えるとシュンは柱の陰から出て、勢いよく駆けだした。ユウギリもまた彼を見失うまいと焦って飛び出て――派手に銅鑼を倒してしまった。
通路に、轟音が鳴り響く。
そうとなれば見回りのキヨフサが舞い戻るのは必至だ。侵入者を発見して大剣を振り上げるキヨフサを見て、ユウギリは腰を抜かしてしまった。
殺される……!
死を覚悟したユウギリは、目を瞑った。
だが、耳をつんざくような金属音が聴こえるばかりで、怖れていた痛みは感じない。恐る恐る目を開けると、そこには振り下ろされた大剣を刀で受け止める少年の背があった。
つばぜり合いに耐えながら、シュンが叫ぶ。
「ユウギリ、離れろ!」
ユウギリは這うようにして、なんとか巨体から身を離した。
力勝負ではキヨフサに及ばず、どうにか横に大剣を逸してみたものの、続けざまに薙ぎ払われれば、防御の構えをとるのがやっと。後方に吹き飛ばされたシュンの苦痛に歪んだ顔に、鮮血が流れた。額に傷を負っていたのだ。
絶体絶命の窮地である。
だが、彼は見逃していなかった。
先ほど、キヨフサが大剣を薙ぎ払った直後、その重さでよろめいていたことを。
大剣を寸前でかわせば、相手の一瞬の隙をつくことができる――!
迷っている暇はない、彼は大博打に出た。
大胆にキヨフサの間合いに飛び込み、薙ぎ払いを誘う。
「今だッ!」
来るとわかっていれば回避はできる。
シュンはキヨフサの薙ぎ払いを、既のところで避けてみせた。ふたたび刃先が額をかすったが、大剣が空を裂いた直後、彼は完全に相手の懐に入っていた。
そして、敵の身体が泳いだ隙にシュンは落ち着いて刀を構え、修行のとおりに打ち込む。
心核を砕かれたキヨフサは均衡を崩し、轟音を立ててひっくり返った。
顔を上げたシュンの額には、真っ赤な十字が刻まれていた。
「ユウギリ、逃げるぞ!」
勝利の余韻に浸ることもなく、シュンはユウギリの手を引き、一目散に駆けだした。
見回りのキヨフサは、一体ではないのだ。
シュンたちは霊廟の表口に辿り着くと、躊躇なく外へと飛び出した。
「助かった……」
そう胸をなでおろしたのも束の間、目の前に黒い影が立ちはだかった。
ガンエン廟を警備していた帝国兵だった。
「お前たち、どうやって!? 霊廟への立ち入りは禁じられているのだぞ!
違反者は処刑するとの総督令を知らぬわけではあるまい!」
怯えきって固まるユウギリを庇うように、シュンが前に出て叫んだ。
「すべてわしの責任だ!
処刑するならわしだけにして、どうか彼女は許してやってくれ!」
そう懇願して、シュンは土下座までしてみせた。
「ガキにしてはいい度胸じゃないか……」
剣を抜いて身構える帝国兵を見ながら、ユウギリは泣き叫ぶことすらできなかった。
自分の失態で、大切な友だちが処刑されてしまう。
何とかしなければという想いだけが空回りし、涙が溢れ出してきた。
「お待ちくだされ、その童が副総督の長子と知っての処刑でござろうか?」
そこに、当時リジン家の世話人となっていた、巨漢の侍ゴウセツが現れた。
シュンの正体を知って驚く帝国兵だが、それでも罪に問うことはできると反論する。
「だとすれば、警備の任にありながら童の侵入を防げなかった、
おぬしらの罪も問われることであろうな」
このゴウセツの一言が決定打となった。
帝国兵は、見逃すのは今回限りだと吐き捨てると、ふたりの身柄を解放したのだった。
「ドマの民を救うため、セイテンタイセイの力を借りたかったのだ」
ガンエン廟に侵入した理由をゴウセツに問われ、シュンはそう答えた。
すると巨漢の侍は、腕を組み切々と説き始めた。
「なるほど、セイテンタイセイは音に聞こえし大瑞獣。
その力があれば、城の工事に動員されている者らは救えるやもしれませぬ。
が、その後はいかようになさるおつもりか?」
シュンが答えられぬと見て、ゴウセツは続けた。
「強制労働から逃れた者には、さらに厳しい締め付けが待っているのは必定。
シュン坊が救おうとなされておる者らに、その覚悟がありましょうや?
事を起こすとなれば、必ず先を見据えねばなりませぬ。
カイエン様が語った『大局を見る』とはそういうことなのでござる」
ただ黙して俯いているシュンを見て、ユウギリは辛抱できずに声を上げた。
「シュンは私を命がけで護ってくれた! だから、もう許してあげて!」
一部始終を語って聞かせる少女に、ゴウセツは耳を傾けてくれた。
「ふむ……わが身を顧みず、友を救おうとしたことは立派でござる。
その心意気に免じて、此度のことはこれで終いとしましょう」
それから程なくして、ドマ城の工事は終わり、民は強制労働から解放された。
だが、竹藪でのふたりきりの修行は再開されることはなかった。
シュンが、ゴウセツから本格的に稽古をつけてもらうことになったからだ。
「父上の言うとおりだった。帝国と戦を始めるにはまだ早い。
ドマの民も……そして、わしもな」
少年は自嘲気味に微笑み、そして表情を改めて宣言した。
「だが、わしはいつかドマをスイの里のような、子どもが笑って暮らせる国にしたい。
必ずそれを成し遂げて見せるぞ!」
「私も、私もそれの力になりたい!」
思わず、ユウギリはそう答えた。
「おう! 待っておるぞ!」
かくして、幼き少年と少女は別れた。
彼らが再会を果たすのは、何年も後のこと。その時、ユウギリは「隠れ里」で技を修めた忍者に、ヒエンは元服した一人前の侍となっていた。
いつの間にか、子どもたちは言い争いに飽きたのか、石蹴りをして遊んでいた。
そこには、子どもたちが笑って暮らせる国があった。
「石蹴りか? わしも混ぜてくれ!」
十字傷を持つ侍が現れて、子どもたちの輪に交ざる姿を見て、ユウギリは微笑んだ。あの日の少年は、確かに誓いを果たしたのだ。
黎明秘話 第2話「メルウィブの罪」
ウ・ガマロ武装鉱山で行われた和平交渉が成功裏に終わり、長年対立してきたリムサ・ロミンサとコボルド族の間に和議が結ばれた。
その大事を成し遂げ、提督室へと戻ってきたメルウィブ・ブルーフィスウィンは、愛銃の手入れをしながら、ふと初めてこの二丁の銃を撃ったときのことを思い返した。
遡ること第六星暦1562年。
当時、リムサ・ロミンサでは、クリスタル輸送中の商船がサハギン族に襲撃される事件が頻発していた。
クリスタルは産業の要である。その流通が止まれば、海都の溶鉱炉から火は消え、職人たちは槌を置かざるを得ない。
この危機に対し、ひとりの大海賊が立ち上がる。有力海賊、シルバーサンド一家の前首領「ブルーフィス」だ。彼は数年前に首領の座を、娘であるメルウィブに譲っていたが、未だ大きな影響力を保持しており、娘たちに洋上の警戒に当たるよう号令を発したのだった。
仁義に厚い父を敬愛していたメルウィブは、その命を受け、連日のようにロータノ海に船を出した。
そんなある日、彼女の船である「ライブリー号」がリンクパールによる救難信号をキャッチした。発信元は、商船「オライオン号」。例によってサハギン族の襲撃を受けているという。
父に任せておいた主力船団とは離れていたが、メルウィブは単艦、現場海域に急行する道を選んだ。
通常、海上戦においてはサハギン族に分があるが、メルウィブの大胆な指揮ぶりと、その右腕である副長ロレンスの百発百中の狙撃により、大きな被害を出すこともなく制圧に成功した。まさに完勝である。
あとは港まで「オライオン号」を送り届ければ、任務は完了だ。
だが、そうはならなかった。
銃撃を受けながらも、かろうじて生き残っていたサハギン族が、積み荷のクリスタルを媒介にして、蛮神を――水神リヴァイアサンを召喚したのだ。
シーサーペントを上回る水神の巨体を見て、メルウィブは形勢の逆転を悟った。
海上において人に逃げ場など存在しない。唯一の足場である船を壊されれば、いよいよ為す術はない。
初撃で「ライブリー号」は竜骨を叩き折られ、数分も保たずに沈没。残った船員たちは、助けたはずの「オライオン号」に飛び移ったものの、ことごとく戦意を失っていった。それはメルウィブとて例外ではなかったが、こちらに向かってくる船影が、彼女の意識を再び戦いへと戻した。ブルーフィスが主力船団を率いて救援にやってきたのだ。
齢20にも満たずして、メルウィブの副長を務めるミッドランダー族の青年ロレンスは、太陽の様に煌めく金髪を指で掻き上げながら、安堵したように息を吐いた。
「おやっさんが来てくれたか……。
ふう、命拾いしたぜ……」
娘に若いうちから首領としての経験を積ませようと、早々に隠居を決め込んだ父ブルーフィスであったが、シルバーサンド一家の真の長が誰なのかをメルウィブは実感した。
その後、蛮神相手の戦いは数時間にも及んだが、海賊たちは多くの犠牲を払いながらも、水神リヴァイアサンを退けてみせた。
当時の海賊の中で最大勢力を誇るシルバーサンド一家を総動員してもなお、討伐には至らなかったことは、人々に蛮神の脅威を知らしめる結果となった。
ブルーフィスが一部の船員を引き連れて姿を消したのは、それからすぐのことだ。名目上の首領はメルウィブであったため、残った船員たちが直ちに分裂することはなかったが、皆が動揺しているのは明らかであった。
そして凶事は続く。再びリムサ・ロミンサの商船が襲われる事件が発生したのだ。しかも、これまでと違い、襲撃者はサハギン族ではなく、人の海賊であった。
商船を襲撃した海賊たちは、自らを「海蛇の舌」と名乗り、積み荷のクリスタルを根こそぎ強奪。抵抗した者は、容赦なく殺されたという。
その後も「海蛇の舌」による商船への襲撃は続いた。さらに、彼らが奪ったクリスタルをサハギン族の産卵地に運びこんでいるという情報が、数名の船乗りからもたらされた。しかも、証言によれば、「海蛇の舌」を率いているのは、姿を消していたブルーフィスその人であるというのだ。リムサ・ロミンサの名高い海賊がサハギン族と通じていた、という衝撃の情報は、一夜にして海都の隅々に広まった。
それから数日後。
リムサ・ロミンサの港から、夜明けを待たずに出航しようとする一隻の船があった。
甲板を抜ける冷たい夜風を受けながら、メルウィブと数名の手下たちが出港準備を進めていた。その表情は、思い詰めたように硬く強張っている。
ブルーフィスがサハギン族に加担していたことが明らかになって以来、シルバーサンド一家は逆賊の一味として扱われるようになり、自由を失っていた。逆賊の娘とあれば、メルウィブに向けられる目はより厳しかった。夜明け前の闇にでも乗じなければ、乗船することさえ困難なほどに。
しかし、招かれざる客が現れる。背後の足音に気づいてメルウィブが振り返ると、ルガディン族の大男が仁王立ちしているではないか。鉄仮面で素顔を隠しているが、何よりもそのことが彼の正体が高名な海賊王、「霧髭」であることを示していた。
父ブルーフィスと敵対することもあった伝説的な大海賊だ。
逆賊の娘に制裁を加えに来たのか、そう考えたメルウィブが身構える。
「ブルーフィスを連れ戻しに行くのか?」
霧髭の声は鉄仮面越しでくぐもって聞こえたが、どこか不思議な温かみを感じる響きだった。
「違う……殺しに行くんだ」
想定外の返答だったのだろう、霧髭は言葉に詰まったような顔を見せてから、絞り出すようにこう言った。
「そうか……親父を連れ戻そうって腹なら、力ずくでも止めようと思ったんだがな。
お前さんが、その覚悟ならこれを持っていけ……」
霧髭は、愛用する二丁の短銃を差し出した。
その意図を図りかねてメルウィブは問いかける。
「良い銃なのはわかるが、どうして私に……?」
「俺やブルーフィスみたいな古い海賊の時代はもうすぐ終わる。
それをヤツもわかっていたからこそ、若いお前さんに首領を譲ったはずだ。
お前がヤツを撃つというなら、その覚悟を俺にも背負わせてくれ」
霧髭が父とどんな関係だったのかメルウィブには知る由もないが、親殺しの罪を背負うと言ってくれた彼の言葉に、少しだけ救われた気持ちがした。そして彼女は出港した。二丁の短銃を懐に抱きながら――
夜が明ける頃、メルウィブを乗せた船は、海蛇の舌が根城にしていた小島に上陸した。
迎撃に出てきた者たちの中にサハギン族が交じっていたことが、ブルーフィス率いる海蛇の舌がサハギン族と通じていることの証左だった。
メルウィブは霧髭から譲り受けた二丁の短銃を両手に構えながら、次々と敵を打ち倒していく。敵兵のほとんどが、かつての部下であり幼少期から付き合いのある連中ばかりだ。それでも心を鬼にして、引き金を絞り続けた。
しかし、どうあがいても多勢に無勢。数少ない手勢が次々に斃れ、メルウィブもまた次第に追い詰められていった。
ここで終わりか……。
死を覚悟した彼女を救ったのは、一発の銃弾だった。
振り向いた先に、リムサ・ロミンサに置いてきたはずの副長ロレンスの姿があった。
自分が倒された場合、首領としてシルバーサンド一家を率いらせるために、彼に黙って出てきたというのに。
「なぜ、お前がここにいる!?」
「首領が先陣切ってドンパチやってるんだ。ついていくのが海賊ってもんだろ?」
「それにしては、駆けつけるのが少し遅いんじゃないか?」
「俺は方向音痴なんだよ。
隠れていた船倉から出てきたときにゃ、みんなの姿はないし、
道もなけりゃ地図もないときたもんだ」
互いに軽口を交わし合いながら、メルウィブとロレンスは絶妙な連携で、敵を掃討していった。二丁の短銃を手に突っ込むメルウィブを、ロレンスが自慢の遠距離狙撃でサポートする。
ふたりが、島の中枢部にある洞窟にたどり着くまで、さほどの時間を必要としなかった。
その奥で、ふたりはブルーフィスと再会を果たした。
だが、その姿は影もないほどに痩せ細り、乱れた髪と髭には白髪が交じり、口元はだらしなく開けられていた。
変わり果てた姿に言葉を失っているメルウィブとロレンスに対して、ブルーフィスは濁った硝子のような目を向けて声をかけてきた。
「お前たちも我が『海蛇の舌』の仲間になりに来たのか?」
ロレンスは、依然口を閉ざしたままのメルウィブを一瞥した後、彼女の代わりに真意を質そうと試みた。
「おやっさん、アンタどうしちまったんだよ」
「わからんのか、ロレンス。
ヒトは神の前ではあまりに無力だ。
だが、水神様に忠誠を誓えば、この海で生きながらえることができるのだ」
蛮神についての研究が進んでいる昨今ならば、この時のブルーフィスがテンパードと化していたことは疑いようもなく、彼の名誉を汚すような行いにも、同情の余地はあっただろう。しかし、当時の人々にその知識はなく、単なる裏切り者と映った。それでもメルウィブは、父の乱心ぶりが本人の意思によるものではないことに、薄々気づいていた。
故にこそ、今の父と言葉を交わすことの無意味さも理解していたが、メルウィブは言葉を返さずにはいられなかった。
「不可能は人が作り出す、と親父殿は教えてくれた。
言い返せば、可能も神ではなく、人が作り出すもののはずだ!」
しかし、その言葉は届かない。ブルーフィスは心底、失望した様子で応えた。
「育て方を間違えたようだな……」
もはや、これ以上言葉を交わす必要はない。
メルウィブがここに来たのは、父を説得するためではない。
裏切り者に死の制裁デスペナルティをくだすためにやってきたのだ。
「幸い、ここには我々しかいない。
あなたにまだ海賊としての矜持が残っているのなら、私との決闘に応じてくれ」
メルウィブに真っ直ぐな目で見つめられたブルーフィスは、先ほどまで卑しい笑みを浮かべていた唇を強く結んで立ち上がると、娘と背中合わせに立った。言葉に出さずとも、それが答えだった。
見届け役は、ロレンスただひとり。介添人もいない寂しい決闘だ。
何の合図もなく、両者が一歩ずつ前に足を踏み出していく。静寂に包まれた洞窟の中に、足音が響く度に、親子の距離は遠ざかっていく。
少し前までは近くに感じていた父が、いまは手の届かない場所にいる。メルウィブは悔やんだ。あの時、確実にサハギン族を始末していれば、蛮神も召喚されず、今も父の背中を追っていられたのだろうか。
やがて、ふたりは洞窟の壁際で立ち止まると、決闘の合図を待った。
ロレンスは固く握りしめた右手を前へと差し出すと、ゆっくりと手を開いた。開かれた手の平から、一枚のコインがこぼれ落ちる。それが地面に落ちた時、父と娘のどちらかが死ぬ。
身よりのなかったロレンスを育てたのは、誰あろうブルーフィスその人だった。
その恩をロレンスが常に感じていたことを、メルウィブもまた知っていた。彼とて父代わりのブルーフィスをみすみす死なせたくはなかったはずだ。
だが彼は、メルウィブとともに親殺しの罪を背負う選択をした。それが、姉弟同然に育った彼なりの答えであり、生き様なのだと理解できた。
コインが地面に落ちると、軽やかな金属音が洞窟内に響いた。
瞬間、父と娘は腰の銃に手をかけ、互いに振り向いた。
先に引き金を引いたのは、メルウィブだった。
銃口から放たれた弾丸は、的確に父の左胸を貫き――引き金に指をかけたまま、ブルーフィスは崩れ落ちた。
「メルウィブ、ロレンス……手間ぁかけちまったな……。
後のこたぁ……任せた、ぞ……」
ブルーフィスが最期に浮かべた笑みは、メルウィブがよく知る父の笑顔だった。
動かなくなったブルーフィスを見下ろしながら、ロレンスは口を開いた。
「これで終わったわけじゃない、まだ、蛮神の脅威が残っている。
が、並大抵の海賊の集まりじゃ、ヤツを倒すことはできねえ」
彼は拳を握りしめて続ける。
「だから……だから俺は、世界中から腕利きを集めて、蛮神殺しの傭兵団を作ってやる!
おやっさんに、後のことを任されちまったからな……」
そう言って黙り込んだロレンスの眼は、お前はどうするんだと問いかけていた。
「私は……」
銃の手入れを終えたメルウィブは、窓の側に立ち、凪いだ海を見ていた。
今日まで何度、父を殺したあの日のことを思い返してきただろう。ここまで歩いてこられたのは、ともに罪を背負ってくれたふたりの男のおかげだった。
その一方は、鉄仮面を脱ぎ捨て、今もメルウィブを支えてくれている。
そして、もう一人の男は――。
第七霊災以降、姿を見かけなくなって久しいが……この海が再び嵐に見舞われるようなことがあれば、必ずや、また表舞台に現れるだろう。
何せ、私たちはあの親父殿に後を任されたのだから。
その大事を成し遂げ、提督室へと戻ってきたメルウィブ・ブルーフィスウィンは、愛銃の手入れをしながら、ふと初めてこの二丁の銃を撃ったときのことを思い返した。
遡ること第六星暦1562年。
当時、リムサ・ロミンサでは、クリスタル輸送中の商船がサハギン族に襲撃される事件が頻発していた。
クリスタルは産業の要である。その流通が止まれば、海都の溶鉱炉から火は消え、職人たちは槌を置かざるを得ない。
この危機に対し、ひとりの大海賊が立ち上がる。有力海賊、シルバーサンド一家の前首領「ブルーフィス」だ。彼は数年前に首領の座を、娘であるメルウィブに譲っていたが、未だ大きな影響力を保持しており、娘たちに洋上の警戒に当たるよう号令を発したのだった。
仁義に厚い父を敬愛していたメルウィブは、その命を受け、連日のようにロータノ海に船を出した。
そんなある日、彼女の船である「ライブリー号」がリンクパールによる救難信号をキャッチした。発信元は、商船「オライオン号」。例によってサハギン族の襲撃を受けているという。
父に任せておいた主力船団とは離れていたが、メルウィブは単艦、現場海域に急行する道を選んだ。
通常、海上戦においてはサハギン族に分があるが、メルウィブの大胆な指揮ぶりと、その右腕である副長ロレンスの百発百中の狙撃により、大きな被害を出すこともなく制圧に成功した。まさに完勝である。
あとは港まで「オライオン号」を送り届ければ、任務は完了だ。
だが、そうはならなかった。
銃撃を受けながらも、かろうじて生き残っていたサハギン族が、積み荷のクリスタルを媒介にして、蛮神を――水神リヴァイアサンを召喚したのだ。
シーサーペントを上回る水神の巨体を見て、メルウィブは形勢の逆転を悟った。
海上において人に逃げ場など存在しない。唯一の足場である船を壊されれば、いよいよ為す術はない。
初撃で「ライブリー号」は竜骨を叩き折られ、数分も保たずに沈没。残った船員たちは、助けたはずの「オライオン号」に飛び移ったものの、ことごとく戦意を失っていった。それはメルウィブとて例外ではなかったが、こちらに向かってくる船影が、彼女の意識を再び戦いへと戻した。ブルーフィスが主力船団を率いて救援にやってきたのだ。
齢20にも満たずして、メルウィブの副長を務めるミッドランダー族の青年ロレンスは、太陽の様に煌めく金髪を指で掻き上げながら、安堵したように息を吐いた。
「おやっさんが来てくれたか……。
ふう、命拾いしたぜ……」
娘に若いうちから首領としての経験を積ませようと、早々に隠居を決め込んだ父ブルーフィスであったが、シルバーサンド一家の真の長が誰なのかをメルウィブは実感した。
その後、蛮神相手の戦いは数時間にも及んだが、海賊たちは多くの犠牲を払いながらも、水神リヴァイアサンを退けてみせた。
当時の海賊の中で最大勢力を誇るシルバーサンド一家を総動員してもなお、討伐には至らなかったことは、人々に蛮神の脅威を知らしめる結果となった。
ブルーフィスが一部の船員を引き連れて姿を消したのは、それからすぐのことだ。名目上の首領はメルウィブであったため、残った船員たちが直ちに分裂することはなかったが、皆が動揺しているのは明らかであった。
そして凶事は続く。再びリムサ・ロミンサの商船が襲われる事件が発生したのだ。しかも、これまでと違い、襲撃者はサハギン族ではなく、人の海賊であった。
商船を襲撃した海賊たちは、自らを「海蛇の舌」と名乗り、積み荷のクリスタルを根こそぎ強奪。抵抗した者は、容赦なく殺されたという。
その後も「海蛇の舌」による商船への襲撃は続いた。さらに、彼らが奪ったクリスタルをサハギン族の産卵地に運びこんでいるという情報が、数名の船乗りからもたらされた。しかも、証言によれば、「海蛇の舌」を率いているのは、姿を消していたブルーフィスその人であるというのだ。リムサ・ロミンサの名高い海賊がサハギン族と通じていた、という衝撃の情報は、一夜にして海都の隅々に広まった。
それから数日後。
リムサ・ロミンサの港から、夜明けを待たずに出航しようとする一隻の船があった。
甲板を抜ける冷たい夜風を受けながら、メルウィブと数名の手下たちが出港準備を進めていた。その表情は、思い詰めたように硬く強張っている。
ブルーフィスがサハギン族に加担していたことが明らかになって以来、シルバーサンド一家は逆賊の一味として扱われるようになり、自由を失っていた。逆賊の娘とあれば、メルウィブに向けられる目はより厳しかった。夜明け前の闇にでも乗じなければ、乗船することさえ困難なほどに。
しかし、招かれざる客が現れる。背後の足音に気づいてメルウィブが振り返ると、ルガディン族の大男が仁王立ちしているではないか。鉄仮面で素顔を隠しているが、何よりもそのことが彼の正体が高名な海賊王、「霧髭」であることを示していた。
父ブルーフィスと敵対することもあった伝説的な大海賊だ。
逆賊の娘に制裁を加えに来たのか、そう考えたメルウィブが身構える。
「ブルーフィスを連れ戻しに行くのか?」
霧髭の声は鉄仮面越しでくぐもって聞こえたが、どこか不思議な温かみを感じる響きだった。
「違う……殺しに行くんだ」
想定外の返答だったのだろう、霧髭は言葉に詰まったような顔を見せてから、絞り出すようにこう言った。
「そうか……親父を連れ戻そうって腹なら、力ずくでも止めようと思ったんだがな。
お前さんが、その覚悟ならこれを持っていけ……」
霧髭は、愛用する二丁の短銃を差し出した。
その意図を図りかねてメルウィブは問いかける。
「良い銃なのはわかるが、どうして私に……?」
「俺やブルーフィスみたいな古い海賊の時代はもうすぐ終わる。
それをヤツもわかっていたからこそ、若いお前さんに首領を譲ったはずだ。
お前がヤツを撃つというなら、その覚悟を俺にも背負わせてくれ」
霧髭が父とどんな関係だったのかメルウィブには知る由もないが、親殺しの罪を背負うと言ってくれた彼の言葉に、少しだけ救われた気持ちがした。そして彼女は出港した。二丁の短銃を懐に抱きながら――
夜が明ける頃、メルウィブを乗せた船は、海蛇の舌が根城にしていた小島に上陸した。
迎撃に出てきた者たちの中にサハギン族が交じっていたことが、ブルーフィス率いる海蛇の舌がサハギン族と通じていることの証左だった。
メルウィブは霧髭から譲り受けた二丁の短銃を両手に構えながら、次々と敵を打ち倒していく。敵兵のほとんどが、かつての部下であり幼少期から付き合いのある連中ばかりだ。それでも心を鬼にして、引き金を絞り続けた。
しかし、どうあがいても多勢に無勢。数少ない手勢が次々に斃れ、メルウィブもまた次第に追い詰められていった。
ここで終わりか……。
死を覚悟した彼女を救ったのは、一発の銃弾だった。
振り向いた先に、リムサ・ロミンサに置いてきたはずの副長ロレンスの姿があった。
自分が倒された場合、首領としてシルバーサンド一家を率いらせるために、彼に黙って出てきたというのに。
「なぜ、お前がここにいる!?」
「首領が先陣切ってドンパチやってるんだ。ついていくのが海賊ってもんだろ?」
「それにしては、駆けつけるのが少し遅いんじゃないか?」
「俺は方向音痴なんだよ。
隠れていた船倉から出てきたときにゃ、みんなの姿はないし、
道もなけりゃ地図もないときたもんだ」
互いに軽口を交わし合いながら、メルウィブとロレンスは絶妙な連携で、敵を掃討していった。二丁の短銃を手に突っ込むメルウィブを、ロレンスが自慢の遠距離狙撃でサポートする。
ふたりが、島の中枢部にある洞窟にたどり着くまで、さほどの時間を必要としなかった。
その奥で、ふたりはブルーフィスと再会を果たした。
だが、その姿は影もないほどに痩せ細り、乱れた髪と髭には白髪が交じり、口元はだらしなく開けられていた。
変わり果てた姿に言葉を失っているメルウィブとロレンスに対して、ブルーフィスは濁った硝子のような目を向けて声をかけてきた。
「お前たちも我が『海蛇の舌』の仲間になりに来たのか?」
ロレンスは、依然口を閉ざしたままのメルウィブを一瞥した後、彼女の代わりに真意を質そうと試みた。
「おやっさん、アンタどうしちまったんだよ」
「わからんのか、ロレンス。
ヒトは神の前ではあまりに無力だ。
だが、水神様に忠誠を誓えば、この海で生きながらえることができるのだ」
蛮神についての研究が進んでいる昨今ならば、この時のブルーフィスがテンパードと化していたことは疑いようもなく、彼の名誉を汚すような行いにも、同情の余地はあっただろう。しかし、当時の人々にその知識はなく、単なる裏切り者と映った。それでもメルウィブは、父の乱心ぶりが本人の意思によるものではないことに、薄々気づいていた。
故にこそ、今の父と言葉を交わすことの無意味さも理解していたが、メルウィブは言葉を返さずにはいられなかった。
「不可能は人が作り出す、と親父殿は教えてくれた。
言い返せば、可能も神ではなく、人が作り出すもののはずだ!」
しかし、その言葉は届かない。ブルーフィスは心底、失望した様子で応えた。
「育て方を間違えたようだな……」
もはや、これ以上言葉を交わす必要はない。
メルウィブがここに来たのは、父を説得するためではない。
裏切り者に死の制裁デスペナルティをくだすためにやってきたのだ。
「幸い、ここには我々しかいない。
あなたにまだ海賊としての矜持が残っているのなら、私との決闘に応じてくれ」
メルウィブに真っ直ぐな目で見つめられたブルーフィスは、先ほどまで卑しい笑みを浮かべていた唇を強く結んで立ち上がると、娘と背中合わせに立った。言葉に出さずとも、それが答えだった。
見届け役は、ロレンスただひとり。介添人もいない寂しい決闘だ。
何の合図もなく、両者が一歩ずつ前に足を踏み出していく。静寂に包まれた洞窟の中に、足音が響く度に、親子の距離は遠ざかっていく。
少し前までは近くに感じていた父が、いまは手の届かない場所にいる。メルウィブは悔やんだ。あの時、確実にサハギン族を始末していれば、蛮神も召喚されず、今も父の背中を追っていられたのだろうか。
やがて、ふたりは洞窟の壁際で立ち止まると、決闘の合図を待った。
ロレンスは固く握りしめた右手を前へと差し出すと、ゆっくりと手を開いた。開かれた手の平から、一枚のコインがこぼれ落ちる。それが地面に落ちた時、父と娘のどちらかが死ぬ。
身よりのなかったロレンスを育てたのは、誰あろうブルーフィスその人だった。
その恩をロレンスが常に感じていたことを、メルウィブもまた知っていた。彼とて父代わりのブルーフィスをみすみす死なせたくはなかったはずだ。
だが彼は、メルウィブとともに親殺しの罪を背負う選択をした。それが、姉弟同然に育った彼なりの答えであり、生き様なのだと理解できた。
コインが地面に落ちると、軽やかな金属音が洞窟内に響いた。
瞬間、父と娘は腰の銃に手をかけ、互いに振り向いた。
先に引き金を引いたのは、メルウィブだった。
銃口から放たれた弾丸は、的確に父の左胸を貫き――引き金に指をかけたまま、ブルーフィスは崩れ落ちた。
「メルウィブ、ロレンス……手間ぁかけちまったな……。
後のこたぁ……任せた、ぞ……」
ブルーフィスが最期に浮かべた笑みは、メルウィブがよく知る父の笑顔だった。
動かなくなったブルーフィスを見下ろしながら、ロレンスは口を開いた。
「これで終わったわけじゃない、まだ、蛮神の脅威が残っている。
が、並大抵の海賊の集まりじゃ、ヤツを倒すことはできねえ」
彼は拳を握りしめて続ける。
「だから……だから俺は、世界中から腕利きを集めて、蛮神殺しの傭兵団を作ってやる!
おやっさんに、後のことを任されちまったからな……」
そう言って黙り込んだロレンスの眼は、お前はどうするんだと問いかけていた。
「私は……」
銃の手入れを終えたメルウィブは、窓の側に立ち、凪いだ海を見ていた。
今日まで何度、父を殺したあの日のことを思い返してきただろう。ここまで歩いてこられたのは、ともに罪を背負ってくれたふたりの男のおかげだった。
その一方は、鉄仮面を脱ぎ捨て、今もメルウィブを支えてくれている。
そして、もう一人の男は――。
第七霊災以降、姿を見かけなくなって久しいが……この海が再び嵐に見舞われるようなことがあれば、必ずや、また表舞台に現れるだろう。
何せ、私たちはあの親父殿に後を任されたのだから。
- 【海雄旅団】
黎明秘話 第3話「茜の空に華と散る」
父の死から数日――
フォルドラはただ、どこかへ逃げだしたいという思いに駆られていた。
母はあの日以来、ずっと泣き続けている。そんな母の前では、涙を流すことさえ憚られた。同胞からも帝国人からも蔑まれ、心は徐々に磨り減っていく。
生きる理由が、わからなくなっていた。
日が傾きかけたころ、見回りの帝国兵がいない薄暗い裏路地を通って、フォルドラは街の外を目指していた。子供ひとりがやっと通れる隙間を抜けて城壁の外へ出ると、東アバラシア山脈の稜線を一望できる場所へとたどり着く。ここはフォルドラがひとりになりたいときに訪れる、秘密の場所だ。
西日の眩しさに思わず目を細めた。日暮れ前の真っ赤な空が、フォルドラは好きだ。
「どうして赤くなるの」と父にしつこく尋ねたことを思い出した。そんな疑問をあしらうこともなく真正面から共に考えてくれる、生真面目で優しい父だった。
不意に気配を感じて、はっと我に返った。
振り返れば、青い巨体に浮かぶ黄金の双眸が、じっとフォルドラを見下ろしていた。湖畔から腹を空かせてやってきたのだろう。獰猛な捕食者としても知られる大型両生類アバドンが、長い舌をちらつかせ、獲物を見定めていた。
それでもフォルドラは、恐ろしいとさえ感じなかった。
ただ、自分はここで死ぬのだと、理解した。
――しかし、そうはならなかった。
「うおりゃああああああ!!!!」
最初に聞こえたのは、威勢のいい女性の掛け声。遅れて風切り音と、鈍い打撃音。
そして次の瞬間には、目の前の巨大な塊が……消えていた。数秒後にどさりと音がして視線を遣れば、アバドンが遥か先でひっくり返って、短い足をばたつかせている。
呆然としているフォルドラのもとに、格闘士らしき女性が小走りに近づいてきて声をかけた。
「大丈夫? 怪我ない!?」
突然のことに頭の処理が追いつかず、やっとの思いでフォルドラは頷く。
女性は「よかったあ」と安堵の声を漏らし、いつの間にか尻もちをついていたフォルドラに、片手を差しだした。顔の半分以上を覆うバイザーで表情はよく見えないが、露出している口許で愛想の良さがわかった。燃えるような夕焼け空が、よく似合う人だと思った。
「アタシはイダ、よろしくね!」
差しだされた手を取ることもできずにフォルドラが固まっていると、イダが強引に両手を掴んできた。そして小さい子にするように……否、小さい子がするように、ぶんぶんと上下に振りながら、なぜか楽しそうに笑みを浮かべるのだった。
「あ、あの……?」
「あなたの名前は?」
「……フォルドラ」
「こんなところでひとり? お母さんやお父さんは?」
「母さんは、たぶん家で……父さんは……」
つい言葉に詰まって俯くと、イダは「そっか」とだけ言って、それ以上は訊かなかった。
「……ねえフォルドラ。明日もまた、この場所で会おうよ!」
脈絡もなく、イダが言った。
どうしてかと尋ねると、イダはうーんと首を捻ったあと、「友達になったから!」と言い放った。……どうしよう、まるで状況が呑み込めない。命の恩人とはいえ、いつの間に友達になったのかと、さすがに抗議を試みたが徒労に終わった。
「だいじょーぶ! その辺の魔物ならアタシがぶっ飛ばしちゃるからさ!」
いいでしょ? と握ったままの手を離そうとしないイダは、はなから断らせる気などないらしい。フォルドラは大いに戸惑いながらも、頷くしかないのだった。
以降、イダは、毎日のようにフォルドラを様々な場所に連れだしてくれた。
ロッホ・セル湖にふたりで潜って目を真っ赤に腫らし、心配する母を誤魔化すのに苦労したのは良い思い出だ。狩りのコツも教わった。生まれて初めて自力で仕留めた獲物は、イダが焚火を作って簡単に調理してくれた。母の手料理と違って野性味にあふれていたが、心から美味しいと感じた。フォルドラはそのとき初めて、父が亡くなった日以来、自分が笑っていることに気づいた。
それからイダはよく、妹の話をした。
同じく父を亡くし、ショックで笑わなくなってしまった妹を元気づけるために、必死にあちこち連れまわしたのだと語った。
「だからフォルドラを見たとき、あの頃の妹を思い出してさ。
放っておけなくなっちゃったんだよね」
イダは“相棒”と共に、任務で数週間ほどギラバニアに滞在する予定だと言っていた。一度その理由を尋ねてみたが、曖昧に笑うだけで教えてはくれなかった。
だけど、彼女が時折、リンクパールで通信している“相棒”との会話の内容から、なんとなく察していた。意味はよくわからなかったが、「亡命」という言葉を何度か耳にした。
きっと、彼女は帝国の敵なのだろう。
それでも、フォルドラは自分でも不思議なほどに、イダという人物にすっかり心を許していたのだった。
「……アタシと一緒に来ない?」
イダの任務が終わりに近づいたある日、彼女が思い切ったように言った。アラミゴを出て、一緒に他の土地で自由に暮らさないかと。
あまりに突然のことで、即答できない。家族や友人も連れていけるのかと問えば、イダは辛そうに口を開いた。
「たくさんは無理なんだ……。
数人なら、なんとかキャリッジの荷台に紛れ込ませて、連れていけるかもしれない」
「ごめんね、困っちゃうよね」とイダは謝った。それでも誘ったのは、フォルドラ自身が「どこかに逃げたい」と漏らしたときのことを、覚えていてくれたからだろう。
相談してよく考えてみるようにと言って、彼女は亡命の決行日と待ち合わせ場所を伝えた。それはすなわち、イダがアラミゴを去る日を意味した。
フォルドラは悩んだ末に、幼馴染の友人たちに相談することにした。
だが、ひととおり話を聞いた4人の友人たちは、皆一様に黙ってしまった。
長い沈黙を破ったのは、エメリンという名の少女だった。
「ごめんね……。私、家族を置いていけないよ……。
でも、フォルドラと離れ離れになるのも嫌だよう……」
泣きだしそうな顔を隠すように、エメリンは俯いてしまった。
隣にいる大柄な少年、フルドルフもまた申し訳なさそうに言う。
「俺も……歳食った爺ちゃんがいるから……すみません……」
そうか、と肩を落とすと、フォルドラを姉のように慕う年下の少年、チャーレットが涙目で言った。
「僕はフォルドラ姉の気持ちがわかるよ!
お父さんのことがあってから、ずっと辛そうだったけど、
最近すごく楽しそうだったことも知ってる……!
だから……もし、フォルドラ姉が行きたいなら……さ、寂しいけど……僕は応援するよ!」
そんなチャーレットの実兄であるアンスフリッドは最後まで沈黙を守っていたが、ついに我慢できないという様子で叫んだ。
「馬鹿! アラミゴ人なんかに頼ることねーよ!
俺たちが支えるから、行くなよ、フォルドラ!」
そう憤る彼もまた、唇を震わせながら強く拳を握り締めている。
兄の一喝に、弟のチャーレットはとうとう泣きだし、
「やっぱり、僕も嫌だ……みんなずっと一緒に居られるって思ってたから……」
「うわああん、フォルドラ行かないで……!
私たちがどこにだって付いていくから……」
そんなチャーレットにつられて、エメリンまでわんわんと泣きだす始末。
泣き虫な友人たちに呆れつつも、フォルドラは彼らの想いが嬉しかった。アラミゴ人と帝国人との狭間で、同じ苦しみを分け合ってきた友人たちを置いて、自分だけ逃げるわけにはいかない。フォルドラはイダの誘いを断り、アラミゴに残ることを決意した。
今は一緒に行けずとも、きっとまたいつか会える。
だから寂しいけど、最後の日はきっと笑顔で送りだすのだと心に決めて、フォルドラは家路につくのだった。
このとき物陰で会話を聴いていた者がいたなどと、露ほども思わずに――。
約束の日。
フォルドラは、指定された場所でイダを待っていた。
だが、姿を現したイダの様子は普段とはどこか違っていた。いつもフォルドラを見つけると嬉しそうに走り寄ってくる彼女が、今日に限っては、こちらを見るなり足を止め、あたりを警戒するように見渡している。つられてフォルドラも周囲を見てみるが、廃墟が立ち並んでいるだけで、特におかしい様子はない。
「……イダ?」
小声で語りかけてみたが、通信が入ったのかイダはリンクパールを耳に当てた。
きっと、いつもの“相棒”に違いない。
「りょーかい。
……実は、こっちも結構マズイ状況なんだ。
うん、予定変更。アタシのことはいいから、今すぐ出発して」
いったい、何のことだろう……。微かに漏れ聞こえる通信の向こう側で、“相棒”が怒鳴っているのがわかった。
「……ごめん、パパリモ! 妹のこと、よろしくね!」
普段通りの明るい口調でそう言うと、イダは通信を切断した。
よかった、いつものイダだ……そう安堵し、近づこうとしたとき――
背後で複数の足音がした。
心臓が止まるほど驚いて振り返ると、帝国兵が2人……3人……否、続々と姿を現した帝国兵は、優に10人は超えている。
「お前、騙したな……!」
今まで聞いたことのない冷たい声で、イダが言った。それが自分に向けられた言葉だと理解するのに、数秒を要した。
「え……?」
「帝国兵を連れてきやがって! 裏切り者!」
違うと訴えようとして、すぐに気づいた。
イダが芝居を打っていること――そして、自分が帝国兵につけられていたことを。
「金持ちの商家の娘だからと、その財産を狙ってきたが……
でも、計画は失敗……もう用無しなんだよ!」
これはすべて、反帝国活動家の一味であるとの疑いが自分に向かないようにするための、イダの嘘だ。
情けなくて、悔しくて、唇を噛んだ……。
帝国兵のひとりが、通信機を取り出して状況を報告し始めた。そのとき、
――にげて
イダが口の形だけで、そう告げたのがわかった。
瞬間、じりじりと間合いを詰めていた帝国兵のひとりが、身柄を確保しようというのかフォルドラに手を伸ばした。ほぼ同時にイダが大地を蹴り、一瞬で間合いを詰める。鳩尾に強打を食らった帝国兵が、くぐもった声を上げて崩れ落ちた。
慌てた残りの帝国兵が、一斉にイダを取り囲む。
トントンとステップを踏みながら、イダも拳を構えて挑発する。
「怖いならまとめてかかってきなよ、卑怯者!」
「この蛮族を殺せッ!!」
帝国兵の怒号と共に、フォルドラは走りだした。今自分がここにいても、イダの足手纏いになるだけだ。
廃墟の間を縫うようにして走り続けた。
だが、所詮は子供の足だ。たちどころに、ひとりの帝国兵に追いつかれ、鈍く光る無骨な剣が振り上げられる。怖い――恐怖で、フォルドラの足がもつれた次の瞬間、帝国兵が吹っ飛び、瓦礫に突っ込んで動かなくなった。
神速の武技で間合いを詰めたイダが、帝国兵の脇腹に強烈な一撃を打ち込んでいたのだ。
振り返ったイダと、視線が交差する。目元を覆っていたバイザーは外れ、アラミゴ伝統の入れ墨が露わになっていた。初めて目にした青い瞳が、慈しむように細められた。
逃げてと伝えたいのに、声がでない。
怯え、震え、立ち尽くすフォルドラに、イダが不意に近づき、ふわりと頭を撫でて言った。
「生きてね、フォルドラ。
生きて、生き延びて、いつか必ず……希望を掴むんだ」
嗚咽をこらえ、頷くことしかできないフォルドラに柔らかく微笑むと、敵を引き離すため、彼女は踵を返して反対方向へと駆け出した。
紅蓮の空を背に、イダは舞う。
ひとり、またひとりと帝国兵が倒れていく。
それでも、躱しきれない刃が、打撃が、銃撃が、少しずつイダの体力を削っていく。
塩湖の白い地面が、徐々に紅く染まっていくのが遠目にもわかった。
次から次へと増援がやってくる。市街地の方から、金属の擦れる不快な音とともに、巨大な魔導兵器が向かってくるのが見えた。彼女ひとり逃げるくらいだったら、簡単にできただろう。それでも無謀な戦いを選んだのは、ひとえにフォルドラを逃がすため。たったひとりの子供を救うために、イダは自分の命を犠牲にしようとしていた。
「なんで……私なんかのために……」
助けを呼べば、まだ間に合うかもしれない。
でも……誰を……?
いったい誰が、彼女を助けてくれるというのか?
考えても答えなど浮かばず、フォルドラはただ、自分の非力を呪うことしかできなかった。
それでも、生きるために、一歩、また一歩と、震える足を必死に動かした。
イダの最後の言葉を、繰り返し、胸に刻みながら――
結局、イダのおかげで、幼いフォルドラにそれ以上の嫌疑がかけられることはなかった。だが、また何か疑わしいことをすれば、今度こそは母親共々……下手すれば友人たちも投獄され、そして殺されるのだろうと、フォルドラは理解していた。
ならばこのまま、帝国人として、のし上がるしか道はない。
彼女の言う希望が何なのか、今はわからない。
だが、生きると誓った。
あのとき救われたこの命で、いつか、約束を果たせる日が来ると信じて。
数年後、フォルドラは顔に入れたばかりのアラミゴ伝統の入れ墨を指でなぞっていた。
あの人から受け取ったすべてを胸に抱いて、ゆっくりと歩きだす。その先には、アンスフリッド、エメリン、フルドルフが待っている。
この日、彼らはガレマール帝国軍第XII軍団に志願した。
フォルドラはただ、どこかへ逃げだしたいという思いに駆られていた。
母はあの日以来、ずっと泣き続けている。そんな母の前では、涙を流すことさえ憚られた。同胞からも帝国人からも蔑まれ、心は徐々に磨り減っていく。
生きる理由が、わからなくなっていた。
日が傾きかけたころ、見回りの帝国兵がいない薄暗い裏路地を通って、フォルドラは街の外を目指していた。子供ひとりがやっと通れる隙間を抜けて城壁の外へ出ると、東アバラシア山脈の稜線を一望できる場所へとたどり着く。ここはフォルドラがひとりになりたいときに訪れる、秘密の場所だ。
西日の眩しさに思わず目を細めた。日暮れ前の真っ赤な空が、フォルドラは好きだ。
「どうして赤くなるの」と父にしつこく尋ねたことを思い出した。そんな疑問をあしらうこともなく真正面から共に考えてくれる、生真面目で優しい父だった。
不意に気配を感じて、はっと我に返った。
振り返れば、青い巨体に浮かぶ黄金の双眸が、じっとフォルドラを見下ろしていた。湖畔から腹を空かせてやってきたのだろう。獰猛な捕食者としても知られる大型両生類アバドンが、長い舌をちらつかせ、獲物を見定めていた。
それでもフォルドラは、恐ろしいとさえ感じなかった。
ただ、自分はここで死ぬのだと、理解した。
――しかし、そうはならなかった。
「うおりゃああああああ!!!!」
最初に聞こえたのは、威勢のいい女性の掛け声。遅れて風切り音と、鈍い打撃音。
そして次の瞬間には、目の前の巨大な塊が……消えていた。数秒後にどさりと音がして視線を遣れば、アバドンが遥か先でひっくり返って、短い足をばたつかせている。
呆然としているフォルドラのもとに、格闘士らしき女性が小走りに近づいてきて声をかけた。
「大丈夫? 怪我ない!?」
突然のことに頭の処理が追いつかず、やっとの思いでフォルドラは頷く。
女性は「よかったあ」と安堵の声を漏らし、いつの間にか尻もちをついていたフォルドラに、片手を差しだした。顔の半分以上を覆うバイザーで表情はよく見えないが、露出している口許で愛想の良さがわかった。燃えるような夕焼け空が、よく似合う人だと思った。
「アタシはイダ、よろしくね!」
差しだされた手を取ることもできずにフォルドラが固まっていると、イダが強引に両手を掴んできた。そして小さい子にするように……否、小さい子がするように、ぶんぶんと上下に振りながら、なぜか楽しそうに笑みを浮かべるのだった。
「あ、あの……?」
「あなたの名前は?」
「……フォルドラ」
「こんなところでひとり? お母さんやお父さんは?」
「母さんは、たぶん家で……父さんは……」
つい言葉に詰まって俯くと、イダは「そっか」とだけ言って、それ以上は訊かなかった。
「……ねえフォルドラ。明日もまた、この場所で会おうよ!」
脈絡もなく、イダが言った。
どうしてかと尋ねると、イダはうーんと首を捻ったあと、「友達になったから!」と言い放った。……どうしよう、まるで状況が呑み込めない。命の恩人とはいえ、いつの間に友達になったのかと、さすがに抗議を試みたが徒労に終わった。
「だいじょーぶ! その辺の魔物ならアタシがぶっ飛ばしちゃるからさ!」
いいでしょ? と握ったままの手を離そうとしないイダは、はなから断らせる気などないらしい。フォルドラは大いに戸惑いながらも、頷くしかないのだった。
以降、イダは、毎日のようにフォルドラを様々な場所に連れだしてくれた。
ロッホ・セル湖にふたりで潜って目を真っ赤に腫らし、心配する母を誤魔化すのに苦労したのは良い思い出だ。狩りのコツも教わった。生まれて初めて自力で仕留めた獲物は、イダが焚火を作って簡単に調理してくれた。母の手料理と違って野性味にあふれていたが、心から美味しいと感じた。フォルドラはそのとき初めて、父が亡くなった日以来、自分が笑っていることに気づいた。
それからイダはよく、妹の話をした。
同じく父を亡くし、ショックで笑わなくなってしまった妹を元気づけるために、必死にあちこち連れまわしたのだと語った。
「だからフォルドラを見たとき、あの頃の妹を思い出してさ。
放っておけなくなっちゃったんだよね」
イダは“相棒”と共に、任務で数週間ほどギラバニアに滞在する予定だと言っていた。一度その理由を尋ねてみたが、曖昧に笑うだけで教えてはくれなかった。
だけど、彼女が時折、リンクパールで通信している“相棒”との会話の内容から、なんとなく察していた。意味はよくわからなかったが、「亡命」という言葉を何度か耳にした。
きっと、彼女は帝国の敵なのだろう。
それでも、フォルドラは自分でも不思議なほどに、イダという人物にすっかり心を許していたのだった。
「……アタシと一緒に来ない?」
イダの任務が終わりに近づいたある日、彼女が思い切ったように言った。アラミゴを出て、一緒に他の土地で自由に暮らさないかと。
あまりに突然のことで、即答できない。家族や友人も連れていけるのかと問えば、イダは辛そうに口を開いた。
「たくさんは無理なんだ……。
数人なら、なんとかキャリッジの荷台に紛れ込ませて、連れていけるかもしれない」
「ごめんね、困っちゃうよね」とイダは謝った。それでも誘ったのは、フォルドラ自身が「どこかに逃げたい」と漏らしたときのことを、覚えていてくれたからだろう。
相談してよく考えてみるようにと言って、彼女は亡命の決行日と待ち合わせ場所を伝えた。それはすなわち、イダがアラミゴを去る日を意味した。
フォルドラは悩んだ末に、幼馴染の友人たちに相談することにした。
だが、ひととおり話を聞いた4人の友人たちは、皆一様に黙ってしまった。
長い沈黙を破ったのは、エメリンという名の少女だった。
「ごめんね……。私、家族を置いていけないよ……。
でも、フォルドラと離れ離れになるのも嫌だよう……」
泣きだしそうな顔を隠すように、エメリンは俯いてしまった。
隣にいる大柄な少年、フルドルフもまた申し訳なさそうに言う。
「俺も……歳食った爺ちゃんがいるから……すみません……」
そうか、と肩を落とすと、フォルドラを姉のように慕う年下の少年、チャーレットが涙目で言った。
「僕はフォルドラ姉の気持ちがわかるよ!
お父さんのことがあってから、ずっと辛そうだったけど、
最近すごく楽しそうだったことも知ってる……!
だから……もし、フォルドラ姉が行きたいなら……さ、寂しいけど……僕は応援するよ!」
そんなチャーレットの実兄であるアンスフリッドは最後まで沈黙を守っていたが、ついに我慢できないという様子で叫んだ。
「馬鹿! アラミゴ人なんかに頼ることねーよ!
俺たちが支えるから、行くなよ、フォルドラ!」
そう憤る彼もまた、唇を震わせながら強く拳を握り締めている。
兄の一喝に、弟のチャーレットはとうとう泣きだし、
「やっぱり、僕も嫌だ……みんなずっと一緒に居られるって思ってたから……」
「うわああん、フォルドラ行かないで……!
私たちがどこにだって付いていくから……」
そんなチャーレットにつられて、エメリンまでわんわんと泣きだす始末。
泣き虫な友人たちに呆れつつも、フォルドラは彼らの想いが嬉しかった。アラミゴ人と帝国人との狭間で、同じ苦しみを分け合ってきた友人たちを置いて、自分だけ逃げるわけにはいかない。フォルドラはイダの誘いを断り、アラミゴに残ることを決意した。
今は一緒に行けずとも、きっとまたいつか会える。
だから寂しいけど、最後の日はきっと笑顔で送りだすのだと心に決めて、フォルドラは家路につくのだった。
このとき物陰で会話を聴いていた者がいたなどと、露ほども思わずに――。
約束の日。
フォルドラは、指定された場所でイダを待っていた。
だが、姿を現したイダの様子は普段とはどこか違っていた。いつもフォルドラを見つけると嬉しそうに走り寄ってくる彼女が、今日に限っては、こちらを見るなり足を止め、あたりを警戒するように見渡している。つられてフォルドラも周囲を見てみるが、廃墟が立ち並んでいるだけで、特におかしい様子はない。
「……イダ?」
小声で語りかけてみたが、通信が入ったのかイダはリンクパールを耳に当てた。
きっと、いつもの“相棒”に違いない。
「りょーかい。
……実は、こっちも結構マズイ状況なんだ。
うん、予定変更。アタシのことはいいから、今すぐ出発して」
いったい、何のことだろう……。微かに漏れ聞こえる通信の向こう側で、“相棒”が怒鳴っているのがわかった。
「……ごめん、パパリモ! 妹のこと、よろしくね!」
普段通りの明るい口調でそう言うと、イダは通信を切断した。
よかった、いつものイダだ……そう安堵し、近づこうとしたとき――
背後で複数の足音がした。
心臓が止まるほど驚いて振り返ると、帝国兵が2人……3人……否、続々と姿を現した帝国兵は、優に10人は超えている。
「お前、騙したな……!」
今まで聞いたことのない冷たい声で、イダが言った。それが自分に向けられた言葉だと理解するのに、数秒を要した。
「え……?」
「帝国兵を連れてきやがって! 裏切り者!」
違うと訴えようとして、すぐに気づいた。
イダが芝居を打っていること――そして、自分が帝国兵につけられていたことを。
「金持ちの商家の娘だからと、その財産を狙ってきたが……
でも、計画は失敗……もう用無しなんだよ!」
これはすべて、反帝国活動家の一味であるとの疑いが自分に向かないようにするための、イダの嘘だ。
情けなくて、悔しくて、唇を噛んだ……。
帝国兵のひとりが、通信機を取り出して状況を報告し始めた。そのとき、
――にげて
イダが口の形だけで、そう告げたのがわかった。
瞬間、じりじりと間合いを詰めていた帝国兵のひとりが、身柄を確保しようというのかフォルドラに手を伸ばした。ほぼ同時にイダが大地を蹴り、一瞬で間合いを詰める。鳩尾に強打を食らった帝国兵が、くぐもった声を上げて崩れ落ちた。
慌てた残りの帝国兵が、一斉にイダを取り囲む。
トントンとステップを踏みながら、イダも拳を構えて挑発する。
「怖いならまとめてかかってきなよ、卑怯者!」
「この蛮族を殺せッ!!」
帝国兵の怒号と共に、フォルドラは走りだした。今自分がここにいても、イダの足手纏いになるだけだ。
廃墟の間を縫うようにして走り続けた。
だが、所詮は子供の足だ。たちどころに、ひとりの帝国兵に追いつかれ、鈍く光る無骨な剣が振り上げられる。怖い――恐怖で、フォルドラの足がもつれた次の瞬間、帝国兵が吹っ飛び、瓦礫に突っ込んで動かなくなった。
神速の武技で間合いを詰めたイダが、帝国兵の脇腹に強烈な一撃を打ち込んでいたのだ。
振り返ったイダと、視線が交差する。目元を覆っていたバイザーは外れ、アラミゴ伝統の入れ墨が露わになっていた。初めて目にした青い瞳が、慈しむように細められた。
逃げてと伝えたいのに、声がでない。
怯え、震え、立ち尽くすフォルドラに、イダが不意に近づき、ふわりと頭を撫でて言った。
「生きてね、フォルドラ。
生きて、生き延びて、いつか必ず……希望を掴むんだ」
嗚咽をこらえ、頷くことしかできないフォルドラに柔らかく微笑むと、敵を引き離すため、彼女は踵を返して反対方向へと駆け出した。
紅蓮の空を背に、イダは舞う。
ひとり、またひとりと帝国兵が倒れていく。
それでも、躱しきれない刃が、打撃が、銃撃が、少しずつイダの体力を削っていく。
塩湖の白い地面が、徐々に紅く染まっていくのが遠目にもわかった。
次から次へと増援がやってくる。市街地の方から、金属の擦れる不快な音とともに、巨大な魔導兵器が向かってくるのが見えた。彼女ひとり逃げるくらいだったら、簡単にできただろう。それでも無謀な戦いを選んだのは、ひとえにフォルドラを逃がすため。たったひとりの子供を救うために、イダは自分の命を犠牲にしようとしていた。
「なんで……私なんかのために……」
助けを呼べば、まだ間に合うかもしれない。
でも……誰を……?
いったい誰が、彼女を助けてくれるというのか?
考えても答えなど浮かばず、フォルドラはただ、自分の非力を呪うことしかできなかった。
それでも、生きるために、一歩、また一歩と、震える足を必死に動かした。
イダの最後の言葉を、繰り返し、胸に刻みながら――
結局、イダのおかげで、幼いフォルドラにそれ以上の嫌疑がかけられることはなかった。だが、また何か疑わしいことをすれば、今度こそは母親共々……下手すれば友人たちも投獄され、そして殺されるのだろうと、フォルドラは理解していた。
ならばこのまま、帝国人として、のし上がるしか道はない。
彼女の言う希望が何なのか、今はわからない。
だが、生きると誓った。
あのとき救われたこの命で、いつか、約束を果たせる日が来ると信じて。
数年後、フォルドラは顔に入れたばかりのアラミゴ伝統の入れ墨を指でなぞっていた。
あの人から受け取ったすべてを胸に抱いて、ゆっくりと歩きだす。その先には、アンスフリッド、エメリン、フルドルフが待っている。
この日、彼らはガレマール帝国軍第XII軍団に志願した。
- 【リセ】
黎明秘話 第4話「心ひらいて」
第六星暦1572年。森都グリダニアは、度重なる難事に見舞われていた。
ガレマール帝国が、エオルゼア諸国に対する再侵攻の気配を漂わせ始めると、アラミゴからの難民が黒衣こくえの森もりに流入する事例が増加。
さらに、難民対処のため警護が手薄になった隙を狙って、イクサル族の侵入が頻発する。黒衣森の樹木を伐採し、嵐神ガルーダへの供物とするためだ。
そのような動きの中、シャーレアンから来た賢人たちが、エオルゼア都市軍事同盟の再活性化を働きかけていた。
態度を決めるべき局面を迎え、不語仙の座卓において臨時の精霊評議会が開かれた。
精霊の声を聞くことができる道士たちで構成されたグリダニアの最高意思決定機関である。
ただし、「声」といっても精霊のそれは「エーテルの波動」と呼ぶべきものであり、確固たる言葉として認識できることは稀だ。
したがって精霊の意思を代弁して人語に置き換える際には、大なり小なり恣意的な解釈が加わることになるのだが、これが見解の相違を招くことも少なくない。重要な政策に関わる声ほど解釈を巡る議論は紛糾し、最終的には投票による多数決に持ち込まれることも多いのが実情だ。
しかも、この年の「声」は、危機に瀕して精霊の感情が乱れているのか、熟練の道士ですら大意を理解することすらままならぬ混乱ぶりであった。
自然と、皆の視線はたったひとりの人物に集まっていく。
カヌ・エ・センナ――当代の幻術皇である。
ヒューラン族の中でも類まれな魔力を持つ彼女だが、なによりもまず目を引くのは、頭に戴いている角だ。それは彼女が角つの尊みことであることを示している。精霊の祝福により、生まれながらにしてその声なき声を聞くことができ、不思議と老いることなく、数百年の長き時を生きる角尊は、人々から有角の神童と呼ばれ、敬われてきた。
そのような稀有な存在にあって、カヌ・エは類まれな資質を持って生まれた。
わずか12歳で大精霊によって幻術皇に選ばれ、以て精霊評議会議長に就任したことからも、彼女の才がいかに飛び抜けたものと考えられていたかがよくわかるだろう。
以来、森の奥深くで静かに暮らしながらも、評議会があれば姿を見せ、議論が割れたときにはもっとも精霊の声をよく聞くことができる者として、解釈を示して結論を導き出してきた。
ゆえに、この時もまた人々はカヌ・エに期待のこもった眼差しを向けていたのだ。
しかし――彼女もまた、精霊の声を掴みかねていた。それはカヌ・エにとって、生まれて初めての出来事であった。
ここで場を収められなければ、幻術皇として失格です。
なんとしても、精霊が伝えようとしているものを正しく理解しなくては……
カヌ・エは、ふたたび意識を集中させ、精霊の声に耳を傾ける。
暴風に荒れ狂う高波のような思念が、一気に流れ込む。
その渦に呑まれぬよう、カヌ・エは感覚を研ぎ澄ませて、解釈を試みる。
しかし、わずかに掴んだイメージから意味をすくい上げようとすると、今度は思念の流れに意識が包まれ、濁流のように押し流されてしまう……。
皆が期待している、幻術皇としての私に。そう思えば思うほどに、一刻も早く結論を出さなければと、焦りばかりが募る。
いったいどうすれば精霊の声を聞きとることができるのか。
そんな初歩的な問いを、幻術皇である彼女が口にできるはずもない。
カヌ・エが思い悩む間にも、精霊たちの意思の奔流は収まらず、むしろ強くなっていく。
そして、ひと際激しい波が襲ってきた後……何もかもが凪いでしまった。
精霊の声が、止んだ……?
初めは、精霊が語りかけを止めたのだと思った。
しかし周囲の道士たちの様子に変わりはなく、激しいエーテルの波動に顔をしかめている者が多い。
カヌ・エにだけ、精霊の声が聞こえていないのだ……。
事態を悟ったカヌ・エは、努めて平静を装いながら、評議会の中断を告げたのだった。
幻術皇が、精霊から拒絶された。
すぐにカヌ・エは、過去の角尊たちに同様の事例がなかったか、記録に答えを求めた。
精霊評議会の議事録から公的な年代記、果ては吟遊詩人が詠んだ詩歌の類まで読み漁り、類似する事例の記述を見つけると、そのときに用いられた対処法を試みた。供物を捧げる儀式に、古式に則った祈祷、さらには奇妙な瞑想法まで試してみたが、いずれも効果は皆無であった。
藁にも縋る想いで初級幻術士向けの指南書を熟読しているときには、我に返って己の浅はかさに辟易した。
ならば精霊のことをより深く理解しようと、ゲルモラ時代以前の黒衣森について記された第五星暦の歴史書を読んでみたが、そこに望むような記述は見つけられなかった。
このまま精霊の声を聞くことができないままだとしても、評議会議長としての責務を果たさないことには政まつりごとが停止してしまう。誰かが判断を下さねば。
次にカヌ・エが向かったのは、先代幻術皇ア・ピタタ・ラパの居だった。
300歳になろうかという高齢のア・ピタタは、病を契機に引退して山中で療養していたが、後継者が困り顔で訪ねてくると、快く招き入れた。
「ただの見舞いではないでしょう。いったいどうしたというのです?」
こうして顔を合わせるのは、十年程前にカヌ・エが幻術皇を襲名したとき以来だ。
評議会の一部には、いくら大精霊に選ばれたとはいえ、まだ幼い彼女に政を任せることを不安視する声もあったが、ほかならぬ先代幻術皇その人が彼女を強く推したため、その場は収まった。
それなのに自分は、ア・ピタタの信頼を裏切るような結果を招いている……恥じ入るカヌ・エは、自分が置かれた状況を正直に打ち明けることができなかった。
しかし、未だ少年のような顔の目元に皺を作りながら、ア・ピタタは優しく笑った。まるで彼女の心の内を見透かしたかのように。
「なにか、葛藤があるのですね。しかし耳を傾けているだけでは、会話は成り立ちません。
声を返さないということは、耳を塞いでいるのと同じことですよ」
その言葉に、目を覚まさせられたような気がした。
あのとき評議会の場で、自分は本当に精霊と対話をしようとしていただろうか。
するといきなり目の前に1匹のモーグリ族が姿を現し、彼女を現実に引き戻した。
「大変、大変クポ! すぐに来てほしいクポ~!」
カヌ・エはア・ピタタの居を辞去すると、要領を得ない説明を繰り返すモーグリに急かされて、森の奥へと急いだ。
そこで目にしたのは、憔悴しきった末弟のア・ルンと、彼を甲斐甲斐しく介助する次女のラヤ・オの姿だった。
話を聞くと、突如ア・ルンが異言を口にするようになり、引きつけを起こしては吐瀉を繰り返しているという。
意思を測りかねていたカヌ・エたちに代わり、今度は姉に劣らず才の豊かなア・ルンの口を介して、精霊たちが何かを伝えようとしているとでもいうのか。
いずれにせよ、尋常ではない感情の乱れと情報量の多さに、ア・ルンの肉体が処理しきれておらず、いずれ命に関わるであろうことは明白であった。
「私の力ではどうにもならなくて……お願い、姉さま、ア・ルンを助けて!」
もちろんです、と口を開きかけたところで、ハッと気づいた。
自分には何もできないと思ったからではない。
助けを求めるラヤ・オの切なる叫びに、思い知らされたからだ。
どうしてその言葉が、あのときの自分の口から出なかったのだろう。
今なすべきこと、それがわかったような気がして、カヌ・エは幼い弟を抱えあげると、すぐにエバーシェイドへと駆けだした。
「森の大精霊よ、あなたにお話があって参上しました。
勝手な願いとは承知していますが、どうか、私の声に耳を傾けてください」
黒衣森でもっとも齢を重ねている大樹、長老の木。
大精霊が棲まうといわれるその木に面と向かっても、カヌ・エにはなにも聞こえない。
ラヤ・オが、ア・ルンの背を大樹に預けるが、苦しみはなおも続いていた。
今、カヌ・エがなすべきこと。
それは、何よりもまず、彼女があの評議会の場で犯してしまった「過ち」を認めることだった。
「災厄の到来を前にして、焦り、恐れを感じたあなた方は、
事の重大さを我々に伝えようと、必死に声をあげていてくれました。
しかし……私にはその声を聞きとることができませんでした」
姉の意外な告白に驚くラヤ・オ。
「だというのに、そのとき私が真っ先に案じたのは、自分のこと……。
幻術皇でありながら精霊の声が聞きとれないと打ち明けて、
皆を失望させるのが怖かったのです。
そんな身勝手な人間に、どうして森の未来を託せましょうか。
あなた方が私に語りかけるのをやめてしまったのも当然です」
相槌を打つように、風が枝葉を揺らす。
「その過ちをお詫びいたします。
そして、あのとき言うべきだったことを、今こそ伝えたいと思います。
未熟な私では、あなた方の期待に沿えないこともあるかもしれません。
けれど、森に生きるすべての命の未来を拓くために、
あなた方と語らいたい気持ちに偽りはありません。
ですから、どうか荒ぶる心を鎮め、今一度、穏やかな声を私に聞かせてください!」
カヌ・エの想いが精霊に通じたのか、乱れていたア・ルンの呼吸が徐々に落ち着きを取り戻す。
やがてその口から一語、また一語と、意味のある言葉が発せられるようになった。
それはあたかも、精霊が「言葉を選んでいる」かのようだ。
カヌ・エが呼びかけ、ア・ルンの口を通し、ラヤ・オが聞きとる。そうして3人で意見を交わしながら解釈していった結果、精霊たちが伝えようとしていたことは、おおよそ次のようなものと判明した。
すなわち、「脅威は月から来きたる」と……。
現在グリダニアを取り巻いている危機とは別種の、未曾有の災厄が、黒衣森のみならず、エオルゼアを襲おうとしているのだ。
予言の内容がわかったとて、それで事態が好転するわけではないが、ここしばらく皆を悩ませていた問題には、ひとつの決着をつけることができそうだ。
これもすべて、妹弟たちのおかげ。もっと早くから相談していれば……。
ふと、カヌ・エの胸に、ある考えが閃いた。
すぐにその内容をラヤ・オとア・ルンに語って聞かせると、ふたりは驚きながらも、了承する。
安堵したカヌ・エが長老の木を仰ぎ見て微笑むと、優しい風が枝を揺らし、彼女の手に何かが落ちてきた。
森都へと帰還したカヌ・エは、すぐさま精霊評議会を再招集した。
しかし、集められた道士たちは、みな一様に困惑の表情を浮かべていた。
カヌ・エの両隣に、議会の一員ではない彼女の妹弟が侍っているばかりか、引退したはずの先代幻術皇ア・ピタタまでもが、病を押して姿を見せていたからだ。
さらには、カヌ・エが開口一番、一時的に精霊の声を聞きとれなくなっていたと告白したことで、困惑の輪は広がった。
「ですが、ラヤ・オとア・ルンの助けを借りることで、
精霊たちの心を鎮め、伝えんとしていた脅威について知ることができました」
カヌ・エが、3人で導き出した解釈――「脅威は月から来る」――を語ると、その途方もない事実に、場はしんと静まりかえった。
「この未曾有の危機を乗り越えるには、私ひとりでは力不足です……。
そう痛感したとき、これを授かることになったのです」
そして、1本の杖を掲げてみせた。
あのとき揺れて落ちてきた、長老の木の枝である。
「この杖、クラウストルムは、私がこれからも妹弟の力を借りていきたいと願った折に、
長老の木よりもたらされたものです。
それはすなわち、3人により精霊の言葉を受け止めることが、
大精霊の意にもかなっているのだと解釈いたしました」
カヌ・エはその杖に、鍵を意味する「クラウストルム」の名をつけた。
自身の閉ざしていた心を開けてくれたものだからだ。
「ですから、もしお許しが得られるのであれば、
これからはこの3人で、幻術皇の職務を行わせていただきたいのです」
左右の妹弟たちも、決意のこもった眼差しで、一同に諮る。
すると、ア・ピタタが言葉を継ぐ。
「三つの心を重ねて対話する……つまり、“三重みえの幻術皇”というわけですね。
精霊と人、そして森に生きるすべてのものの未来を担うにふさわしい体制と言えましょう」
こうして、カヌ・エ・センナによる親政が始まった。
その最初の施策は、来る脅威に対処するための「グランドカンパニー」設立となった。
精霊の声が聞こえなくなった折、必死に紐解いた第五星暦時代の歴史書に、古の統合司令部の記述を見つけていたのだ。それはシャーレアンの賢人からも伝え聞いていたものであり、今こそ復古すべきときと思えた。
それから程なく、新たなるグリダニアの誕生を見届けたア・ピタタが、穏やかに息を引き取った。
その直前、彼はカヌ・エと次のような言葉を交わしていた。
「世に天才と呼ばれるような人物でさえ、道に迷うことはあります。
時に立ち止まり、ゆっくり考えることも必要です。
けれど、いつだって一歩を踏み出すのは自分自身の意思。
己が選んだ道を信じれば、その足取りは確かなものとなりましょう」
「ならば私は、嘘いつわりのない心で、世界を感じましょう。
今ならばわかります。赤心せきしんの前に道は開けるのですから……!」
ガレマール帝国が、エオルゼア諸国に対する再侵攻の気配を漂わせ始めると、アラミゴからの難民が黒衣こくえの森もりに流入する事例が増加。
さらに、難民対処のため警護が手薄になった隙を狙って、イクサル族の侵入が頻発する。黒衣森の樹木を伐採し、嵐神ガルーダへの供物とするためだ。
そのような動きの中、シャーレアンから来た賢人たちが、エオルゼア都市軍事同盟の再活性化を働きかけていた。
態度を決めるべき局面を迎え、不語仙の座卓において臨時の精霊評議会が開かれた。
精霊の声を聞くことができる道士たちで構成されたグリダニアの最高意思決定機関である。
ただし、「声」といっても精霊のそれは「エーテルの波動」と呼ぶべきものであり、確固たる言葉として認識できることは稀だ。
したがって精霊の意思を代弁して人語に置き換える際には、大なり小なり恣意的な解釈が加わることになるのだが、これが見解の相違を招くことも少なくない。重要な政策に関わる声ほど解釈を巡る議論は紛糾し、最終的には投票による多数決に持ち込まれることも多いのが実情だ。
しかも、この年の「声」は、危機に瀕して精霊の感情が乱れているのか、熟練の道士ですら大意を理解することすらままならぬ混乱ぶりであった。
自然と、皆の視線はたったひとりの人物に集まっていく。
カヌ・エ・センナ――当代の幻術皇である。
ヒューラン族の中でも類まれな魔力を持つ彼女だが、なによりもまず目を引くのは、頭に戴いている角だ。それは彼女が角つの尊みことであることを示している。精霊の祝福により、生まれながらにしてその声なき声を聞くことができ、不思議と老いることなく、数百年の長き時を生きる角尊は、人々から有角の神童と呼ばれ、敬われてきた。
そのような稀有な存在にあって、カヌ・エは類まれな資質を持って生まれた。
わずか12歳で大精霊によって幻術皇に選ばれ、以て精霊評議会議長に就任したことからも、彼女の才がいかに飛び抜けたものと考えられていたかがよくわかるだろう。
以来、森の奥深くで静かに暮らしながらも、評議会があれば姿を見せ、議論が割れたときにはもっとも精霊の声をよく聞くことができる者として、解釈を示して結論を導き出してきた。
ゆえに、この時もまた人々はカヌ・エに期待のこもった眼差しを向けていたのだ。
しかし――彼女もまた、精霊の声を掴みかねていた。それはカヌ・エにとって、生まれて初めての出来事であった。
ここで場を収められなければ、幻術皇として失格です。
なんとしても、精霊が伝えようとしているものを正しく理解しなくては……
カヌ・エは、ふたたび意識を集中させ、精霊の声に耳を傾ける。
暴風に荒れ狂う高波のような思念が、一気に流れ込む。
その渦に呑まれぬよう、カヌ・エは感覚を研ぎ澄ませて、解釈を試みる。
しかし、わずかに掴んだイメージから意味をすくい上げようとすると、今度は思念の流れに意識が包まれ、濁流のように押し流されてしまう……。
皆が期待している、幻術皇としての私に。そう思えば思うほどに、一刻も早く結論を出さなければと、焦りばかりが募る。
いったいどうすれば精霊の声を聞きとることができるのか。
そんな初歩的な問いを、幻術皇である彼女が口にできるはずもない。
カヌ・エが思い悩む間にも、精霊たちの意思の奔流は収まらず、むしろ強くなっていく。
そして、ひと際激しい波が襲ってきた後……何もかもが凪いでしまった。
精霊の声が、止んだ……?
初めは、精霊が語りかけを止めたのだと思った。
しかし周囲の道士たちの様子に変わりはなく、激しいエーテルの波動に顔をしかめている者が多い。
カヌ・エにだけ、精霊の声が聞こえていないのだ……。
事態を悟ったカヌ・エは、努めて平静を装いながら、評議会の中断を告げたのだった。
幻術皇が、精霊から拒絶された。
すぐにカヌ・エは、過去の角尊たちに同様の事例がなかったか、記録に答えを求めた。
精霊評議会の議事録から公的な年代記、果ては吟遊詩人が詠んだ詩歌の類まで読み漁り、類似する事例の記述を見つけると、そのときに用いられた対処法を試みた。供物を捧げる儀式に、古式に則った祈祷、さらには奇妙な瞑想法まで試してみたが、いずれも効果は皆無であった。
藁にも縋る想いで初級幻術士向けの指南書を熟読しているときには、我に返って己の浅はかさに辟易した。
ならば精霊のことをより深く理解しようと、ゲルモラ時代以前の黒衣森について記された第五星暦の歴史書を読んでみたが、そこに望むような記述は見つけられなかった。
このまま精霊の声を聞くことができないままだとしても、評議会議長としての責務を果たさないことには政まつりごとが停止してしまう。誰かが判断を下さねば。
次にカヌ・エが向かったのは、先代幻術皇ア・ピタタ・ラパの居だった。
300歳になろうかという高齢のア・ピタタは、病を契機に引退して山中で療養していたが、後継者が困り顔で訪ねてくると、快く招き入れた。
「ただの見舞いではないでしょう。いったいどうしたというのです?」
こうして顔を合わせるのは、十年程前にカヌ・エが幻術皇を襲名したとき以来だ。
評議会の一部には、いくら大精霊に選ばれたとはいえ、まだ幼い彼女に政を任せることを不安視する声もあったが、ほかならぬ先代幻術皇その人が彼女を強く推したため、その場は収まった。
それなのに自分は、ア・ピタタの信頼を裏切るような結果を招いている……恥じ入るカヌ・エは、自分が置かれた状況を正直に打ち明けることができなかった。
しかし、未だ少年のような顔の目元に皺を作りながら、ア・ピタタは優しく笑った。まるで彼女の心の内を見透かしたかのように。
「なにか、葛藤があるのですね。しかし耳を傾けているだけでは、会話は成り立ちません。
声を返さないということは、耳を塞いでいるのと同じことですよ」
その言葉に、目を覚まさせられたような気がした。
あのとき評議会の場で、自分は本当に精霊と対話をしようとしていただろうか。
するといきなり目の前に1匹のモーグリ族が姿を現し、彼女を現実に引き戻した。
「大変、大変クポ! すぐに来てほしいクポ~!」
カヌ・エはア・ピタタの居を辞去すると、要領を得ない説明を繰り返すモーグリに急かされて、森の奥へと急いだ。
そこで目にしたのは、憔悴しきった末弟のア・ルンと、彼を甲斐甲斐しく介助する次女のラヤ・オの姿だった。
話を聞くと、突如ア・ルンが異言を口にするようになり、引きつけを起こしては吐瀉を繰り返しているという。
意思を測りかねていたカヌ・エたちに代わり、今度は姉に劣らず才の豊かなア・ルンの口を介して、精霊たちが何かを伝えようとしているとでもいうのか。
いずれにせよ、尋常ではない感情の乱れと情報量の多さに、ア・ルンの肉体が処理しきれておらず、いずれ命に関わるであろうことは明白であった。
「私の力ではどうにもならなくて……お願い、姉さま、ア・ルンを助けて!」
もちろんです、と口を開きかけたところで、ハッと気づいた。
自分には何もできないと思ったからではない。
助けを求めるラヤ・オの切なる叫びに、思い知らされたからだ。
どうしてその言葉が、あのときの自分の口から出なかったのだろう。
今なすべきこと、それがわかったような気がして、カヌ・エは幼い弟を抱えあげると、すぐにエバーシェイドへと駆けだした。
「森の大精霊よ、あなたにお話があって参上しました。
勝手な願いとは承知していますが、どうか、私の声に耳を傾けてください」
黒衣森でもっとも齢を重ねている大樹、長老の木。
大精霊が棲まうといわれるその木に面と向かっても、カヌ・エにはなにも聞こえない。
ラヤ・オが、ア・ルンの背を大樹に預けるが、苦しみはなおも続いていた。
今、カヌ・エがなすべきこと。
それは、何よりもまず、彼女があの評議会の場で犯してしまった「過ち」を認めることだった。
「災厄の到来を前にして、焦り、恐れを感じたあなた方は、
事の重大さを我々に伝えようと、必死に声をあげていてくれました。
しかし……私にはその声を聞きとることができませんでした」
姉の意外な告白に驚くラヤ・オ。
「だというのに、そのとき私が真っ先に案じたのは、自分のこと……。
幻術皇でありながら精霊の声が聞きとれないと打ち明けて、
皆を失望させるのが怖かったのです。
そんな身勝手な人間に、どうして森の未来を託せましょうか。
あなた方が私に語りかけるのをやめてしまったのも当然です」
相槌を打つように、風が枝葉を揺らす。
「その過ちをお詫びいたします。
そして、あのとき言うべきだったことを、今こそ伝えたいと思います。
未熟な私では、あなた方の期待に沿えないこともあるかもしれません。
けれど、森に生きるすべての命の未来を拓くために、
あなた方と語らいたい気持ちに偽りはありません。
ですから、どうか荒ぶる心を鎮め、今一度、穏やかな声を私に聞かせてください!」
カヌ・エの想いが精霊に通じたのか、乱れていたア・ルンの呼吸が徐々に落ち着きを取り戻す。
やがてその口から一語、また一語と、意味のある言葉が発せられるようになった。
それはあたかも、精霊が「言葉を選んでいる」かのようだ。
カヌ・エが呼びかけ、ア・ルンの口を通し、ラヤ・オが聞きとる。そうして3人で意見を交わしながら解釈していった結果、精霊たちが伝えようとしていたことは、おおよそ次のようなものと判明した。
すなわち、「脅威は月から来きたる」と……。
現在グリダニアを取り巻いている危機とは別種の、未曾有の災厄が、黒衣森のみならず、エオルゼアを襲おうとしているのだ。
予言の内容がわかったとて、それで事態が好転するわけではないが、ここしばらく皆を悩ませていた問題には、ひとつの決着をつけることができそうだ。
これもすべて、妹弟たちのおかげ。もっと早くから相談していれば……。
ふと、カヌ・エの胸に、ある考えが閃いた。
すぐにその内容をラヤ・オとア・ルンに語って聞かせると、ふたりは驚きながらも、了承する。
安堵したカヌ・エが長老の木を仰ぎ見て微笑むと、優しい風が枝を揺らし、彼女の手に何かが落ちてきた。
森都へと帰還したカヌ・エは、すぐさま精霊評議会を再招集した。
しかし、集められた道士たちは、みな一様に困惑の表情を浮かべていた。
カヌ・エの両隣に、議会の一員ではない彼女の妹弟が侍っているばかりか、引退したはずの先代幻術皇ア・ピタタまでもが、病を押して姿を見せていたからだ。
さらには、カヌ・エが開口一番、一時的に精霊の声を聞きとれなくなっていたと告白したことで、困惑の輪は広がった。
「ですが、ラヤ・オとア・ルンの助けを借りることで、
精霊たちの心を鎮め、伝えんとしていた脅威について知ることができました」
カヌ・エが、3人で導き出した解釈――「脅威は月から来る」――を語ると、その途方もない事実に、場はしんと静まりかえった。
「この未曾有の危機を乗り越えるには、私ひとりでは力不足です……。
そう痛感したとき、これを授かることになったのです」
そして、1本の杖を掲げてみせた。
あのとき揺れて落ちてきた、長老の木の枝である。
「この杖、クラウストルムは、私がこれからも妹弟の力を借りていきたいと願った折に、
長老の木よりもたらされたものです。
それはすなわち、3人により精霊の言葉を受け止めることが、
大精霊の意にもかなっているのだと解釈いたしました」
カヌ・エはその杖に、鍵を意味する「クラウストルム」の名をつけた。
自身の閉ざしていた心を開けてくれたものだからだ。
「ですから、もしお許しが得られるのであれば、
これからはこの3人で、幻術皇の職務を行わせていただきたいのです」
左右の妹弟たちも、決意のこもった眼差しで、一同に諮る。
すると、ア・ピタタが言葉を継ぐ。
「三つの心を重ねて対話する……つまり、“三重みえの幻術皇”というわけですね。
精霊と人、そして森に生きるすべてのものの未来を担うにふさわしい体制と言えましょう」
こうして、カヌ・エ・センナによる親政が始まった。
その最初の施策は、来る脅威に対処するための「グランドカンパニー」設立となった。
精霊の声が聞こえなくなった折、必死に紐解いた第五星暦時代の歴史書に、古の統合司令部の記述を見つけていたのだ。それはシャーレアンの賢人からも伝え聞いていたものであり、今こそ復古すべきときと思えた。
それから程なく、新たなるグリダニアの誕生を見届けたア・ピタタが、穏やかに息を引き取った。
その直前、彼はカヌ・エと次のような言葉を交わしていた。
「世に天才と呼ばれるような人物でさえ、道に迷うことはあります。
時に立ち止まり、ゆっくり考えることも必要です。
けれど、いつだって一歩を踏み出すのは自分自身の意思。
己が選んだ道を信じれば、その足取りは確かなものとなりましょう」
「ならば私は、嘘いつわりのない心で、世界を感じましょう。
今ならばわかります。赤心せきしんの前に道は開けるのですから……!」
黎明秘話 第5話「空席の玉座」
イシュガルド教皇庁、謁見の間。
その最奥に据えられた教皇の玉座につく者は、もういない。
ひとりの冒険者が千年に亘った竜詩戦争を終結へと導いたのち、イシュガルドの政治は教皇の神権政治から、貴族院と庶民院の二院による共和制へと移行した。かつて限られた者のみが教皇に拝謁したこの広間は、公的な評議を執り行う議事堂へと改められ、今では多くの議員が出入りしている。
そして、フォルタン伯爵家の当主となったアルトアレールもまた、貴族院の議員のひとりとして、その責務を果たさんとしていた。
「では、これより表決を行い、本日の議会は終了とする。
投票を終えた者から退室してもらって構わない。みな、遅くまでご苦労だった」
黄昏時、石造りの荘厳な室内にアイメリク・ド・ボーレル子爵の声が響く。
貴族院の議長となった彼は、諸外国との公務と並行して、一日の大半を議会に費やしていた。
彼の言葉を皮切りに、議員たちは起立して投票へ向かう。主権が教皇から民衆の手に移ってからというもの、代表者として選出された両院の議員たちは、慣れぬ共和政治に向き合いながら、模索の日々を送ってきた。
アルトアレールもそんな議員たちと共に票を投じ、席を片づけて帰路につこうとしたとき……
彼の瞳に空席の玉座が映った。
そういえば、あの時も玉座は空であったな……
17年前、前教皇の崩御に伴い、新たな教皇トールダン7世の就任式がこの謁見の間にて行われた。
厳粛に執り行われた就任式だったが、新たな教皇の姿を一目見ようとした人々が、グランド・ホプロンにまで溢れかえっていたという。
だが、謁見の間での正式な参列が許されたのは、聖職者たちと蒼天騎士団、そして選皇権を有する四大名家に連なる者のみだった。
当時13歳だった幼きアルトアレールもまた、フォルタン家の長子として共に参列していた。
執事たちが着せてくれた普段の晩餐会で着ているものよりもずっと上等な礼服は、彼の胸を躍らせた。末弟のエマネランも、教皇の就任式の意味するところはわからないまでも、その重要性は理解できるらしく、大人たちを見習って静かにしている。
だが、その場にオルシュファンはいなかった。
同じ家に暮らしながらフォルタンを名乗ることが許されない彼は、家に残る。
そう出発前に父が苦渋の表情で話した理由を、アルトアレールは薄々察していた。母がオルシュファンを嫌っていること、そして彼には兄弟とは思えぬよそよそしさがあることは、幼い頃から感じ取っていたからだ。真相が理解できるようになるのは、もう少し年を重ねてからのことになる。
そんな、ひとり欠けたフォルタン家と四大名家の面々の前に、教皇だけが身につけることのできる法衣をまとったトールダン7世が姿を現した。初代教皇から受け継がれている宝杖「戦神の慈悲」を手にして、まっすぐに前を見据えて玉座へ向かう荘厳な姿に、大人たちはこの者を選んで間違いはなかったと確信し、子どもたちは畏敬の念を抱く。
「我、トールダン7世は、戦神ハルオーネの地上における代理者として、ここに誓う。
豪胆将トールダンの遺志を継ぎ、正しき教えを伝え、正しき政まつりごとを為すと。
邪竜を打ち倒せし十二騎士の血脈に連なる貴族諸君を筆頭に、
すべての者に祝福あらんことを」
トールダン7世の宣誓に、アルトアレールは感銘を受けた。
父や家庭教師たちから学んできたことであったが、自らの祖が建国神話に登場する十二騎士であることが強く再認識させられたのだ。
彼は誇りを胸に、決意を新たにする。
僕もご先祖様のように、イシュガルドを守る立派な騎士になるんだ……!
新教皇の宣誓が終了し、就任式が閉式すると、参列していた人々は帰路につく者と、残って歓談をする者とに分かれた。謁見の間の扉も開かれ、一目でも新教皇に拝謁する機会がないかとうかがう下級貴族や、四大名家に名を売り込もうとする騎士たちも流入してくる。
アルトアレールはエマネランと一緒に、残って歓談に応じる父エドモンの後ろについて周囲に目を配る。貴族社会を円滑に生き抜くため、人々の動向には日々注視しておくように言われていたからだ。
そんなアルトアレールの視界の端に、デュランデル家とゼーメル家の者たちが早々に引き上げていく様子が映る。四大名家の中でも赤地の紋章を背負うふたつの家は、常に一族郎党で寄り集まり、権謀術数を巡らせている印象が強い。
一方、黒地の紋章を背負うフォルタン家とアインハルト家は社交的で、古くから関係が深い。現にエドモンは、当主ボランドゥアンをはじめとするアインハルト家の面々と談笑に応じている。見たところ、アインハルト家の四男一女の兄妹のうち、もっとも幼いフランセルはどうやら留守番らしい。親同士がなにやら難しい話を始めると、子どもたちも好きに口を開き始めた。
エマネランが、顔いっぱいに笑みを浮かべながらアインハルト家の三男クロードバンと、長女ラニエットのもとへ駆け寄る。年下の面倒見の良いクロードバンを、ラニエットもエマネランも慕っているようだ。
アルトアレールは、長男ステファニヴィアンと次男オールヴァエルに向かって、うやうやしく礼をした。年の近い隣家の子どもたちは、将来的に味方にもなればライバルにもなる。適切な距離を保ちつつも、親しくなっておきたい存在だ。
「そんなにかしこまることないじゃないか。同い年なんだし」
そういってステファニヴィアンはからからと笑う。オールヴァエルもまた、屈託なく話した。
「正直、僕はくたくただよ。
式典は終わったんだし、はやく帰りたいな……」
「ああ、作りかけの機械が俺を待ってる。父上に言って、先に帰ってしまおうか」
言うが早いか、彼らはアルトアレールに別れの挨拶をすると、父親に許しを得て家路についてしまった。天真爛漫で仲睦まじい彼らを、アルトアレールは少し羨ましく思う。
こうして取り残されたアルトアレールは、ふたたび人々の動向を自分なりに観察するため、辺りを見回した。
すると、自分よりは少し年上だろうか、凛々しい顔つきをした黒髪の少年が、険しい表情で空の玉座をじっと見つめていることに気づいた。その様子に驚いたアルトアレールは、思わず声をかける。
「あの……どうしてそんなに怒っているの? 教皇猊下がお嫌いなの?」
はっと振り向いた少年は、少し顔を歪めて話す。
「貴殿はフォルタン家の……。
私の出自についての噂を知らないのなら、貴殿には関わりのないことです」
つっけんどんに返され、アルトアレールは面食らってしまう。
だが、黒髪の少年がそんな態度をとるのも無理はない。彼はアイメリク・ド・ボーレル。
子爵家の養子であるが、独身を貫かねばならない聖職者であるはずのトールダン7世が愛人に生ませた落胤であると囁かれる少年であった。
ボーレル子爵と夫人が、その愛情から生みの親の話をしなかったことをよそに、噂好きの者、悪意ある者、いらぬ節介を焼く者が、少年の耳に入るようにわざとらしく噂をするものだから、アイメリクは少しずつ自分の生まれに懐疑心を抱くようになった。
そして、いつか教皇に謁見して真相を確かめたいと思うようになったのだ。
だが、子爵家の少年が高位聖職者、ましてや新たな教皇になった者と謁見できる機会はそう巡ってくるものではない。
だからといって年下の少年に八つ当たりすることが許されはしないだろう。反射的に言いはしたもののアイメリクはばつが悪くなって、アルトアレールに自分から声をかけ直した。
「その……トールダン7世猊下は、どんな話をなされていたのですか?」
「ええと、すべての人に祝福があるようにと。とても立派なお方だったよ!」
教皇の宣誓を思い出して顔を輝かせるアルトアレールと対照的に、アイメリクは表情を変えずに淡々と話す。
「すべての人に祝福だなんて……。そんなこと本当にできるのでしょうか」
きっとできる。そうアルトアレールが答える前に、彼らの背後から声がした。
「ぜったい、できます! 新しい教皇さまは偉大なお方ですから!」
アイメリクとアルトアレールが振り返ると、そこには簡素な身なりの金髪の少年が立っていた。おそらくは騎士の子弟といったところだろう。子ども同士とはいえ、貴族の身分である者たちの話に割り入った彼は、大きく礼をしてから、それでも我慢ができず話を続けた。
「新しい教皇さまは、去年、おはなし会に来てくださったんです。
騎士の子どもたちが、いい騎士になれるように、お祈りしてくださって……。
とってもとっても、優しくていい方なんだよ。僕は、教皇さまを守る騎士になりたい!」
少年がいうおはなし会とは、正教会による慈善活動のことを指す。
熱意をもって話す少年に、アルトアレールは自分の想いと通ずるものを感じ、親しみを覚えた。
一方アイメリクは、なにか言いたげに口を開き……そしてまた口を閉じた。
そこへ、ひとりの騎士がやってきて、平民の少年の肩に手をかけた。
「ヴァルールダンのせがれ! 親父殿が探しているぞ!」
金髪の少年は背筋を伸ばしてもう一度大きく礼をすると、アルトアレールとアイメリクに別れを告げて去っていった。
「私ももう行かなくては。失礼、アルトアレール殿」
彼に名前を教えたっけ、と疑問を抱くアルトアレールに背を向け、アイメリクも去っていく。
彼もまた自分と同様に、権謀術数にまみれた貴族社会を生き残るため、人々をよく洞察することを怠らぬ者であったというわけだ。そして、人並みならぬ努力で文武の鍛錬を欠かさなかったことが、後に明らかになる。
十数年の後、彼は神殿騎士団の総長にまで上り詰めたのだから――
「アルトアレール卿。
みなはもう帰ったが、どうかしたのか?」
残っていたアイメリクに声をかけられ、アルトアレールは我に返る。
物思いにふけっている間に、議員たちは投票を終え、帰路についていたようだ。
幾度か戦場で共に戦ったこともあって、ふたりは信頼で結ばれ、今では気さくに会話を取り交わす仲になっていた。
「空の玉座を見て、ふとトールダン7世の就任式を思い出しましてね。
アイメリク議長、あなたと初めて言葉を交わしたのも、あの時でした」
アルトアレールの言葉にアイメリクは、ほう、とあいづちを打ち、彼もまた玉座を見つめて、そして眉根をひそめた。
「……今となっては、苦い過去だがな」
幼少の思い出は、ふたりを饒舌にさせた。
アルトアレールは、胸に抱えていた想いをアイメリクに打ち明ける。
「私にとっても……イシュガルド正教を、教皇を、
純粋に信じていた過去は、懐かしいような恨めしいような、複雑な想いです。
当時抱いた己の矜持も、偽りの歴史の上に成り立つ、まがいものでしかなかったのだと思
うと」
「歴史の隠蔽は、正教の犯した最大の罪だ。
政治の改革も一筋縄ではいかないことは確かだが、
信じていた正教に裏切られた個々人の想いは、傷跡は、永く癒えることはないだろう」
アルトアレールは、ギムリトダークでの野営中にアイメリクから聞いた話を思い出す。
かつて教皇の謀略を問い詰めた際、トールダン7世は『千年もの間、受け入れてきた歴史と信仰を、民は易々と忘れられると思うのか?』と彼へ問いかけたのだと。
そしてその言葉が、棘のように胸に残り続けているのだと。
私も、彼も、皇都の民もみな、正教を簡単に忘れられるはずがない。
忘れられないからこそ、こうして悩み続けている。
だが……
アルトアレールが言葉を継ごうとしたとき、アイメリクが先に口を開いた。
「だが、だからこそ痛みに目を背けず……
過去と現在いまの想いを受け止めて、その先の未来を歩みたい」
空の玉座を見つめたまま心の丈を打ち明けるアイメリクに、アルトアレールは静かに頷く。
窓から差し込む夕影が、彼らの背中を照らしていた。
その最奥に据えられた教皇の玉座につく者は、もういない。
ひとりの冒険者が千年に亘った竜詩戦争を終結へと導いたのち、イシュガルドの政治は教皇の神権政治から、貴族院と庶民院の二院による共和制へと移行した。かつて限られた者のみが教皇に拝謁したこの広間は、公的な評議を執り行う議事堂へと改められ、今では多くの議員が出入りしている。
そして、フォルタン伯爵家の当主となったアルトアレールもまた、貴族院の議員のひとりとして、その責務を果たさんとしていた。
「では、これより表決を行い、本日の議会は終了とする。
投票を終えた者から退室してもらって構わない。みな、遅くまでご苦労だった」
黄昏時、石造りの荘厳な室内にアイメリク・ド・ボーレル子爵の声が響く。
貴族院の議長となった彼は、諸外国との公務と並行して、一日の大半を議会に費やしていた。
彼の言葉を皮切りに、議員たちは起立して投票へ向かう。主権が教皇から民衆の手に移ってからというもの、代表者として選出された両院の議員たちは、慣れぬ共和政治に向き合いながら、模索の日々を送ってきた。
アルトアレールもそんな議員たちと共に票を投じ、席を片づけて帰路につこうとしたとき……
彼の瞳に空席の玉座が映った。
そういえば、あの時も玉座は空であったな……
17年前、前教皇の崩御に伴い、新たな教皇トールダン7世の就任式がこの謁見の間にて行われた。
厳粛に執り行われた就任式だったが、新たな教皇の姿を一目見ようとした人々が、グランド・ホプロンにまで溢れかえっていたという。
だが、謁見の間での正式な参列が許されたのは、聖職者たちと蒼天騎士団、そして選皇権を有する四大名家に連なる者のみだった。
当時13歳だった幼きアルトアレールもまた、フォルタン家の長子として共に参列していた。
執事たちが着せてくれた普段の晩餐会で着ているものよりもずっと上等な礼服は、彼の胸を躍らせた。末弟のエマネランも、教皇の就任式の意味するところはわからないまでも、その重要性は理解できるらしく、大人たちを見習って静かにしている。
だが、その場にオルシュファンはいなかった。
同じ家に暮らしながらフォルタンを名乗ることが許されない彼は、家に残る。
そう出発前に父が苦渋の表情で話した理由を、アルトアレールは薄々察していた。母がオルシュファンを嫌っていること、そして彼には兄弟とは思えぬよそよそしさがあることは、幼い頃から感じ取っていたからだ。真相が理解できるようになるのは、もう少し年を重ねてからのことになる。
そんな、ひとり欠けたフォルタン家と四大名家の面々の前に、教皇だけが身につけることのできる法衣をまとったトールダン7世が姿を現した。初代教皇から受け継がれている宝杖「戦神の慈悲」を手にして、まっすぐに前を見据えて玉座へ向かう荘厳な姿に、大人たちはこの者を選んで間違いはなかったと確信し、子どもたちは畏敬の念を抱く。
「我、トールダン7世は、戦神ハルオーネの地上における代理者として、ここに誓う。
豪胆将トールダンの遺志を継ぎ、正しき教えを伝え、正しき政まつりごとを為すと。
邪竜を打ち倒せし十二騎士の血脈に連なる貴族諸君を筆頭に、
すべての者に祝福あらんことを」
トールダン7世の宣誓に、アルトアレールは感銘を受けた。
父や家庭教師たちから学んできたことであったが、自らの祖が建国神話に登場する十二騎士であることが強く再認識させられたのだ。
彼は誇りを胸に、決意を新たにする。
僕もご先祖様のように、イシュガルドを守る立派な騎士になるんだ……!
新教皇の宣誓が終了し、就任式が閉式すると、参列していた人々は帰路につく者と、残って歓談をする者とに分かれた。謁見の間の扉も開かれ、一目でも新教皇に拝謁する機会がないかとうかがう下級貴族や、四大名家に名を売り込もうとする騎士たちも流入してくる。
アルトアレールはエマネランと一緒に、残って歓談に応じる父エドモンの後ろについて周囲に目を配る。貴族社会を円滑に生き抜くため、人々の動向には日々注視しておくように言われていたからだ。
そんなアルトアレールの視界の端に、デュランデル家とゼーメル家の者たちが早々に引き上げていく様子が映る。四大名家の中でも赤地の紋章を背負うふたつの家は、常に一族郎党で寄り集まり、権謀術数を巡らせている印象が強い。
一方、黒地の紋章を背負うフォルタン家とアインハルト家は社交的で、古くから関係が深い。現にエドモンは、当主ボランドゥアンをはじめとするアインハルト家の面々と談笑に応じている。見たところ、アインハルト家の四男一女の兄妹のうち、もっとも幼いフランセルはどうやら留守番らしい。親同士がなにやら難しい話を始めると、子どもたちも好きに口を開き始めた。
エマネランが、顔いっぱいに笑みを浮かべながらアインハルト家の三男クロードバンと、長女ラニエットのもとへ駆け寄る。年下の面倒見の良いクロードバンを、ラニエットもエマネランも慕っているようだ。
アルトアレールは、長男ステファニヴィアンと次男オールヴァエルに向かって、うやうやしく礼をした。年の近い隣家の子どもたちは、将来的に味方にもなればライバルにもなる。適切な距離を保ちつつも、親しくなっておきたい存在だ。
「そんなにかしこまることないじゃないか。同い年なんだし」
そういってステファニヴィアンはからからと笑う。オールヴァエルもまた、屈託なく話した。
「正直、僕はくたくただよ。
式典は終わったんだし、はやく帰りたいな……」
「ああ、作りかけの機械が俺を待ってる。父上に言って、先に帰ってしまおうか」
言うが早いか、彼らはアルトアレールに別れの挨拶をすると、父親に許しを得て家路についてしまった。天真爛漫で仲睦まじい彼らを、アルトアレールは少し羨ましく思う。
こうして取り残されたアルトアレールは、ふたたび人々の動向を自分なりに観察するため、辺りを見回した。
すると、自分よりは少し年上だろうか、凛々しい顔つきをした黒髪の少年が、険しい表情で空の玉座をじっと見つめていることに気づいた。その様子に驚いたアルトアレールは、思わず声をかける。
「あの……どうしてそんなに怒っているの? 教皇猊下がお嫌いなの?」
はっと振り向いた少年は、少し顔を歪めて話す。
「貴殿はフォルタン家の……。
私の出自についての噂を知らないのなら、貴殿には関わりのないことです」
つっけんどんに返され、アルトアレールは面食らってしまう。
だが、黒髪の少年がそんな態度をとるのも無理はない。彼はアイメリク・ド・ボーレル。
子爵家の養子であるが、独身を貫かねばならない聖職者であるはずのトールダン7世が愛人に生ませた落胤であると囁かれる少年であった。
ボーレル子爵と夫人が、その愛情から生みの親の話をしなかったことをよそに、噂好きの者、悪意ある者、いらぬ節介を焼く者が、少年の耳に入るようにわざとらしく噂をするものだから、アイメリクは少しずつ自分の生まれに懐疑心を抱くようになった。
そして、いつか教皇に謁見して真相を確かめたいと思うようになったのだ。
だが、子爵家の少年が高位聖職者、ましてや新たな教皇になった者と謁見できる機会はそう巡ってくるものではない。
だからといって年下の少年に八つ当たりすることが許されはしないだろう。反射的に言いはしたもののアイメリクはばつが悪くなって、アルトアレールに自分から声をかけ直した。
「その……トールダン7世猊下は、どんな話をなされていたのですか?」
「ええと、すべての人に祝福があるようにと。とても立派なお方だったよ!」
教皇の宣誓を思い出して顔を輝かせるアルトアレールと対照的に、アイメリクは表情を変えずに淡々と話す。
「すべての人に祝福だなんて……。そんなこと本当にできるのでしょうか」
きっとできる。そうアルトアレールが答える前に、彼らの背後から声がした。
「ぜったい、できます! 新しい教皇さまは偉大なお方ですから!」
アイメリクとアルトアレールが振り返ると、そこには簡素な身なりの金髪の少年が立っていた。おそらくは騎士の子弟といったところだろう。子ども同士とはいえ、貴族の身分である者たちの話に割り入った彼は、大きく礼をしてから、それでも我慢ができず話を続けた。
「新しい教皇さまは、去年、おはなし会に来てくださったんです。
騎士の子どもたちが、いい騎士になれるように、お祈りしてくださって……。
とってもとっても、優しくていい方なんだよ。僕は、教皇さまを守る騎士になりたい!」
少年がいうおはなし会とは、正教会による慈善活動のことを指す。
熱意をもって話す少年に、アルトアレールは自分の想いと通ずるものを感じ、親しみを覚えた。
一方アイメリクは、なにか言いたげに口を開き……そしてまた口を閉じた。
そこへ、ひとりの騎士がやってきて、平民の少年の肩に手をかけた。
「ヴァルールダンのせがれ! 親父殿が探しているぞ!」
金髪の少年は背筋を伸ばしてもう一度大きく礼をすると、アルトアレールとアイメリクに別れを告げて去っていった。
「私ももう行かなくては。失礼、アルトアレール殿」
彼に名前を教えたっけ、と疑問を抱くアルトアレールに背を向け、アイメリクも去っていく。
彼もまた自分と同様に、権謀術数にまみれた貴族社会を生き残るため、人々をよく洞察することを怠らぬ者であったというわけだ。そして、人並みならぬ努力で文武の鍛錬を欠かさなかったことが、後に明らかになる。
十数年の後、彼は神殿騎士団の総長にまで上り詰めたのだから――
「アルトアレール卿。
みなはもう帰ったが、どうかしたのか?」
残っていたアイメリクに声をかけられ、アルトアレールは我に返る。
物思いにふけっている間に、議員たちは投票を終え、帰路についていたようだ。
幾度か戦場で共に戦ったこともあって、ふたりは信頼で結ばれ、今では気さくに会話を取り交わす仲になっていた。
「空の玉座を見て、ふとトールダン7世の就任式を思い出しましてね。
アイメリク議長、あなたと初めて言葉を交わしたのも、あの時でした」
アルトアレールの言葉にアイメリクは、ほう、とあいづちを打ち、彼もまた玉座を見つめて、そして眉根をひそめた。
「……今となっては、苦い過去だがな」
幼少の思い出は、ふたりを饒舌にさせた。
アルトアレールは、胸に抱えていた想いをアイメリクに打ち明ける。
「私にとっても……イシュガルド正教を、教皇を、
純粋に信じていた過去は、懐かしいような恨めしいような、複雑な想いです。
当時抱いた己の矜持も、偽りの歴史の上に成り立つ、まがいものでしかなかったのだと思
うと」
「歴史の隠蔽は、正教の犯した最大の罪だ。
政治の改革も一筋縄ではいかないことは確かだが、
信じていた正教に裏切られた個々人の想いは、傷跡は、永く癒えることはないだろう」
アルトアレールは、ギムリトダークでの野営中にアイメリクから聞いた話を思い出す。
かつて教皇の謀略を問い詰めた際、トールダン7世は『千年もの間、受け入れてきた歴史と信仰を、民は易々と忘れられると思うのか?』と彼へ問いかけたのだと。
そしてその言葉が、棘のように胸に残り続けているのだと。
私も、彼も、皇都の民もみな、正教を簡単に忘れられるはずがない。
忘れられないからこそ、こうして悩み続けている。
だが……
アルトアレールが言葉を継ごうとしたとき、アイメリクが先に口を開いた。
「だが、だからこそ痛みに目を背けず……
過去と現在いまの想いを受け止めて、その先の未来を歩みたい」
空の玉座を見つめたまま心の丈を打ち明けるアイメリクに、アルトアレールは静かに頷く。
窓から差し込む夕影が、彼らの背中を照らしていた。